客観性の定義について『はじめての科学哲学』が教えてくれること

八木沢敬著『はじめての科学哲学』を読みだしたものの、最初の章からどうも気乗りしない…がしかし、ちょっとしんどいなと思いつつ読み進めていたら中盤以降に面白い記載があったので結果的にはいい読書体験になった。

以下、節タイトルとともに気になる箇所をピックアップして紹介したい。

自然は急に変わらない:自然の斉一性

 このように,科学的説明の良し悪しの判断の背景には,時空の斉一性が仮定されているのである.この仮定なしには,そもそも科学的観察や実験をすることの正当化さえできない.
(中略)
 もっといえば,科学的説明にでてくる規則性や法則は,それを明示する観察や実験がなされたときと場所だけでなく,宇宙のすべてのときと場所に当てはまるのだ,という仮定のもとにのみ科学的説明は受けいれるに値するのである.科学的説明を受けいれることによって,わたしたちは,いまここで成り立っている自然法則はいつでもほかのいかなる場所でも成り立っている,と暗に仮定しているのである.

『はじめての科学哲学』p.112-113

「絶対時間」や「絶対空間」といった、いかめしい言葉をつかうことなくスマートに同様の表現ができる「時空の斉一性」という概念。これまで「斉一性」を使う表現といえば「自然の斉一性」しかないと思い込んでいたので、「時空の斉一性」を知れたことは素直に嬉しい。うえの引用文にも同意。積極的に利用したい。

帰納の問題点

観察・実験・シミュレーションなどの手段によってデータを集め,それにかんがみて仮説・理論を構築する科学の方法は,帰納なしには機能しえない.

『はじめての科学哲学』p.119

帰納なしには機能しえない!

(「帰納の問題」について通常なされる)いいあらわし方は,時間軸沿いの一般化に特化しすぎていて,空間軸沿いの一般化や1人称の特異性の除去という側面を忘れている.
 帰納の問題の本来の姿は,究極的に「わたし」,「いま」,「ここ」,「これ」,という概念で表示されざるをえない出発点からはじめて「すべての認識主体」,「すべての時空」,「すべての物体,できごと,場」を網羅するにいたることをめざす科学的方法の根本的基盤がはっきりしない,ということである.非常に大まかにいえば,個々の事例にもとづいた一般化はいかにして正当化できるか,という大変ひろい守備範囲をもつ壮大な問題なのである.

『はじめての科学哲学』p.119-120

これもまた先の「斉一性」と関連する話題。この問題について驚くべき回答を見つけたような気がするが、それは別稿にゆずる。

ヒュームを超えて?:知覚に訴える

科学理論構築にかけがえのない帰納という方法が,このように,認識機能の生物学的な特異性・制約に訴えるということ以上の基礎づけを欠くということは,科学の基礎に純粋に悟性と理性のみにもとづいた完全なる正当化を求めるのは不毛だ,というふくみをもつ.わたしたちが科学するという行為をおこなう,そのやり方は,わたしたちが自然環境に直面するとき,人間という生物としてのがれられない直面の仕方に根本的に拘束されているのである.もちろん,自然の一部であるわたしたちが自然からあたえられた認識機能に制約される,というのは何ら驚くべきことではない.

『はじめての科学哲学』p.151

これもまた大事な指摘だ。「個人の主観的経験が、どのように客観的な知識をうみだすのか?」という先の問題に加え、「進化の過程で身につけた無意識の価値判断フィルターは、何を知覚しない/しがたい/できないのか、認識主体に意識させない」という問題がある。

相対頻度

ひとつは,「似ている」という概念の明瞭化という問題だ.ふたつのサイコロがあった場合,それらが似ているということの必要十分条件は何だろうか.

『はじめての科学哲学』p.163

「似ている」問題の解決は困難だ。だがその困難さから生じる「似ている」の曖昧さもまた、科学の基礎となっているようにも思われる。曖昧だからこそうまくいくこともあるのだろう。

2種類の知識

日々何時間もプールで練習するスポーツ生活を長年つづけた結果バタフライで完璧に泳げるようになったとしても,自分の身体が水中でいかなる力学的環境にあり,その環境内でいかに周りの水と力学的にかかわっているかを正確に文章や数式であらわすことができるわけではない.それとまったく対称的に,科学的探究の結果バタフライ泳法について包括的な命題知識を獲得したからといって,バタフライで泳げるようになるわけではない.

『はじめての科学哲学』p.178、太字追加

「実践知識」と「命題知識」を具体的に対比させる文章につかわれた「対称的」という表現。ここでは「対照的」がふさわしいようにも思われるが、どうなんだろう。

観察の理論負荷性

さて、本書の個人的なハイライトは著者による客観性の定義だ。本書の素晴らしい点は自己批判というかするどいツッコミを自らに課し、それに本気で論駁しようとする態度にあるのだが、科学の客観性にたいする下記の懐疑論にも熱意をもって応じている。

だが,人間の知覚体験は中立ではない.すべての経験は主観的であり,客観的経験などありえない.よって,究極的に経験にもとづかねばならない科学データ収集の行為は客観的ではなく,データそのものも客観的でも中立でもない.

『はじめての科学哲学』p.79

科学が客観性を担保できていることの理由が、このあと見開き2ページにわたり繰り広げられる。そのすべてを引用したいところだが、読者のたのしみにとっておこう。うえに引用した各部分もからみあう、熱のこもった強気の意見表明がそこには感じられた。

結論としては「間主観性」とよばれる概念によって、つまりは多くの人がかかわる「科学コミューニティ」の存在によって客観性を担保できていると考えているようだ。

客観性を定義することは難しい

僕はこの部分を非常に興味深く読んだ。なぜなら、科学的営為において客観性が担保されていることの説明として失敗していると思われるからだ。

単なる憶測にすぎないが、著者もまた自分自身で心底納得のいく説明ではないがゆえに、「弾劾(だんがい)」などといった強い表現で説得的な文章をつづらざるを得なかったのではないか。

僕自身はこのことについて、科学者がひとりで客観性を担保する方法を別途考察している。間主観性に頼った客観性の擁護は悪手なのだろうという示唆を与えてくれた本書には感謝したい。

本書は論理学寄りで読みこなすのが難しいはじめの数章をのぞけば、うえに引用したように非常に示唆に富む優れた内容に思われる。客観性の問題も、客観性があることを前提としてしまえば説明の正否はそれほど問題にはならないはずだし、著者に説得されてしまう読み方もまた一興だろう。

プラセボ効果を科学哲学的に考察するという個人的テーマによせて読んだ『はじめての哲学』。読んでよかったです。

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