ジャーニーズ問題の向こう側

ジャニーズの未成年者に対する性的虐待に関して、事務所は謝罪会見を開催し、その影響下にあったテレビ局をはじめとしたマスコミは自らの報道姿勢を反省し、これからの決意を表明した。

虐待の問題は当然、裁かれるべきだし、加害者が死亡していたとしても法的、道義的な責任は取らなければいけない。

しかし仮に事務所が廃業し、新会社がタレントを引き続き雇用したとしても、根本的な問題は果たして解決されていくのだろうか。

日本ほど、メディアというメディアに芸能人が使われる国は少ないのではないだろうか。海外事情を語る資格はないけれど、海外のテレビCMで有名な芸能人を見かけるだろうか。出演している人は無論プロの演技者に違いないが、それほど有名人とは言えない。自動車、食品、薬品、酒、洗剤、あらゆる広告に演劇のプロが出演しているけれども、普通の役者が使われている。しかし、日本では、超有名な芸能人はありとあらゆる広告に使われている。商品広告だけでなく、公共的な政府広報や案内などにも有名な芸能人が広告塔として登場している。あらゆる情報が芸能人という顔と声を経由して一般市民に伝わってくる。新聞、テレビ、電車、ビル、雑誌など。自分の好きな芸能人が出ているだけで、その商品への評価が決まる。商品の内容ではなく、芸能人というバイアスを通して、その商品を宣伝し、消費行動へと結びつける。

商品がヒットすれば、いくら広告費用がかかっても会社には莫大な利益をもたらす。数字を持っている芸能人には高額なギャラが支払われる。本来の芸能活動による収入よりも多いかもしれない。広告でそれなりに演技をしていれば十分だという意識があるかもしれないが、それはプロとして自らを貶めることにならないだろうか。芸能の才能のある人には、刹那的で限られた価値の宣伝ではなく、自らの表現を通して長く見る人の心に残るような活動をメインにしていただきたいと思う。

マスコミが事件を正しく報道しなかったというのは職務怠慢であるけれど、いくら反省したところで、この巨大な広告世界の中で何を変えることができるだろうか。今も広告主からは巨大な広告宣伝費が払われている。そんなクライアントに視聴者を振り向かせる内容を芸能人無しで作れるのだろうか。ジャニーズ問題が一定の解決を見たとしても、この構造は変わらず、相変わらず、本物か偽物かがわからない広告を視聴者は見せられ続けるのだろうか。