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この世とあの世をつなぐ部屋

ゴールデンウィークの間に、おばが亡くなった。
「間に」としたのは、いつか分からないからだ。
いつの間にか、人知れず、亡くなっていて、あとでそれが判明した。

「〇〇ちゃんをよろしくね」

おばのお母さん(つまり私にとってはおばあちゃん)は、まだ大学生だった私に言った。
それほどに、自分が亡くなった後の、その人が心配だったのだ。
正直、「そう言われてもな……」という気持ちもあったけれど、
多分私は「うん」と言っただろう。
このことがずっと心に引っかかった。

だからその人が一人で暮らすようになってから
仕事を手伝ったこともあったし、
職場に見に行ったこともあった。
「よろしく」と言われていたから、なんとかしたかった。
でも最後にやり取りをしたのは、もう5年か7年以上前だと思う。
その後、連絡先も変わって、私はどこに住んでいるのか、把握さえしていなかった。

中学生の時、その人のお姉さんが突然亡くなった。
亡くなる3日前にあったとき「熱がある」と言って
車の暖房を最大にして、一緒に家業だった弁当屋の配達に行った。
なぜ、ちゃんと病院にいかなかったのだろう。
いま思い出しても涙が出てくるほど、悔やまれる。
だけど、今年亡くなったその人には、そんな思い出もない。

なんて薄情なんだ。

帰省したら、すでに火葬されて、お経をあげてもらうところだった。
骨壺に名前を書いておかないと、納骨した後、どれがその人の骨かわからなくなるとお坊さんが言って、私に書くように促した。

骨壺の蓋を開けて、数年ぶりに会ったその人は、真っ白の、薄そうな頭蓋骨だった。

もう涙も出なかった。

この骨がその人なのか、私には実感がなかった。
あるわけもない。

名前もほどんど書いたことがないので、間違えそうだ。

やっぱり私は薄情だ。

納骨堂の〝部屋〟を開けてみると、
3段しかない棚に、おじいちゃんとおばあちゃんとその人の姉の骨壺がすでに置いてあって、どこかに2つおかなくてはならない。

「ばぁちゃんの横がよかろう」
と私の父が言った。

決して仲良しこよしではなかったかもしれないが、
家族への、彼なりの思いやり。それでいいじゃないか。

納骨堂の中に納まった4つの骨壺は、私が子どもの時にたずねた「ばあぁちゃん家」になっていた。
ようやく、みんな心安らかになれたように見えた。

このことを私はずっと、考えている。
こんなこと文章にしても…と思ったけれど、あまりに何回も頭をよぎるので
いっそのこと書いておくことにした。

この世はあの世と繋がっている。
あの納骨堂のあの部屋が、あの世への入り口だ。
「よろしく」をちゃんと守らなかった私を、
おばあちゃんはどう思っているだろう。
ごめんなさい、と思ってはいる。許してくれる、だろうか。
それもそのうちにあの世で聞いてみることになる。

こうして考えているだけ、私は薄情でもないのかもしれない。

生きている間には、うまく交われなかった。それだけ。

この世で生きる人も、先にあの世に行った人も
お互いに、そんなこと、分かっている。

生きていくということはそういうことで、
死ぬとそれがチャラになって、同じ〝部屋〟に入るのだ。


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