〈風説の流布対策・まとめ〉池内先生の家庭環境&出版に関する所感の情報
こんにちは、Awiです。
今回は、あんまり気が進まずに書いております。色々とややこしい感情を持ったオタクなので仕方ないのですけど(誰も知らなくていいことです)。
しかし池内先生に対する、わけのわからない風説が色々出てきてしまっておりますので、それなら先生がそれについて書いたものをまとめておこう、というのが今回の記事を書いた動機です。
まず、今回のまとめに関する風説の類を説明しますと、
①池内先生が「学者の一族の生まれだから、それを誇ったり家庭環境を自慢している」というような話。
そして、
②池内先生が、「自分の本が売れたかどうかすごく気にしている。自分の本が1番じゃないと気が済まない」というような話。
こんな感じです。
では、まず、
①池内先生が「学者の一族の生まれだから、それを誇ったり家庭環境を自慢している」というような話。
について。
先生のお身内情報については、こちらで書きました。↓↓↓
学者の家系なのは事実ですが、お父様も先生も、エリート意識は特にないんじゃないかな…
ややこしいポジション…私そういうの好きなんですけど(ややこしいオタク)。
さて、先生は折から「特殊環境」で育ったという話をあちこちで少しずつされています。この本なども。
『東大エグゼクティブ・マネジメント デザインする思考力』
少し抜粋。
P90〜
“私自身は、ちょっと家庭環境が特殊なところがあって、そこから複雑な経緯でイスラム研究に行き着いた事情があります。まず生まれ育った家にテレビというものがなかった。(中略)当時はテレビがいわば「国民共通の話題」を設定していた。父が文章を書く人間で、そういったテレビを介した情報を拒否していたのですね。その代わりに、家には膨大な書物が溢れ、しかも新刊本や雑誌が次々に届く“
ね、特殊環境でしょ。
先生の子ども時代の話は、おそらく、この本が1番詳しく書いてあるかな…『書物の運命』。
(これは絶版なので、変な価格が出ていても仕方ないです。図書館等でどうぞ)
冒頭の「いつも本だけがあった」より。
“ところが私の場合は、本ばかりあってほかは何もない生活というものを強いられて育った“
“すべての情報は活字媒体を通して入れるしかないという生活を、物心つく頃から成人するまで強いられた“
池内先生、学者の家系なので、英才教育の良い学校に入って東大まで一直線だったと思われているかも知れませんが、先ほどの投稿にもあった通り、意識高い系の世界とは無縁で、ごく普通の公立学校へ通っていたそうです。1973年生まれって、団塊ジュニアの中でもかなり人数が多かったピークの年度のはず。
普通の公立の小中学校だったら、テレビ見て、ゲームやって、それが話題の中心にある子ども達ばかりでしょうに、たくさんいる同級生の中でたった一人だけそういうものを見たことも体験したこともなくて、よく過ごしていけたと思います。子ども心に苦労も葛藤もあったのでは…。
子供時代に自分の境遇をどのようにするか、自分の力で選び取って生きていける人はあまりいないと思います。与えられたものを受け入れるしかない場合がほとんどではないのかな。
素直に子供時代の環境に感謝できる人もいれば、そうでない人もいるでしょう。
頭では感謝はしているけれど心にわだかまりが残るというような、複雑なものを抱える場合もあるでしょう。
私は、先生が自分の育った環境について語られたこと、決して自慢ではないと思うのです。ただ、ご自身の境遇を説明しないと、中東・イスラム研究者になった理由を説明できないからお話しされているんだろうなと。そしてほんの少し、自虐めいた気持ちもあるのかな(これは想像)。
先生は、日本でも中東でも「そもそもなんでイスラムに興味持ったの?」って聞かれるそうですから。
他人から見たらどんな羨ましい環境であっても、当事者にとってはきっとまた違う感情があるものです。でも、池内先生のように、生まれ育った環境が、別の新しい世界に繋がる事もあるんですよね。
池内先生の親族情報(学者)まとめに載せた先生のFacebook投稿から抜粋。
“文筆業に傾斜した大学教授の子として育ったことは、私の今のような活動に影響を与えたかといえば、与えているだろう。それを不公平、というのであれば、そうかもしれない“
というわけで、池内先生の話が自慢だと感じたなら、まずはそう感じたその人が自分の心をよく見直したほうがいいよ、と私は思っています。
これ読んだ人が自由に考えて下さったらそれでいいのかも知れないけれど。
では、続いて、
②池内先生が、「自分の本が売れたかどうかすごく気にしている。自分の本が1番じゃないと気が済まない」というような話。
…本や出版に関しては、先生が誰の姿見て育ったと思っているんですか?という話にもなるんですが。
先生のお父様の分筆活動は、書評が好評だったそうで、月ごとにあらゆる出版物がほとんど送られてくるという環境だったそうです。雑誌も小説も学術書もあらゆる種類が毎月…(本だらけで家の床が抜けそう…)
これも『書物の運命』の「いつも本だけがあった」より。
“そのうちに、出版の世界の中にある「波」が、頭と体で感じられるようになってくる。売り出し中の作家や、最新の理論を引っ提げて登場した学者の見分けがつくようになり、それだけでなく、彼らがその後どの程度上昇していくか、あるいはどこかで挫けて去っていくのか、来し方行く末までもがなんとなく予想がつくようにもなる。また、耳あたりがよく、ある時代にさかんにもてはやされた説が、時の経過によってはかなく忘れ去られるのも目撃した。
本が好きだとか嫌いだとかいう話ではなく、唯一の情報環境が活字の世界で、その中で起こっている出来事については特殊な知覚が発達する、ということだろう“
本の出版に関して、色々と先生が意見をお持ちなのは「特殊環境」で育ったから。
そして自分の本が売れるということに関してどう感じていたのか、先生がFacebook上に投稿したものがあるので、こちらに転載させていただきました。以下をどうぞ。
2015年2月21日
(ちなみに先生のこの日の投稿量は半端ないのです…ここに掲載した他にもあります)
https://www.facebook.com/satoshi.ikeuchi/posts/pfbid02NhjmTvgKwvx6LJj99CngpPRuvzJUHgKh28WVYTqiUFbDyqMkysQBDVPdgr9DC9Tyl
某国より帰国しました。
本は10万部を超えてなお着々と売れ続けているようです(註:「イスラーム国の衝撃」)。テレビに出て宣伝などしないでも、仲間褒めの書評などでなくても、中身を読んでくれる人たちが黙って買ってくれれば本は売れる。そのような事例になったということで、日本の出版界に対しても範を示しえたのではないかと思います。
本が売れたり賞をもらったりすると、もちろん良いことがいっぱいあるのだけれども、同時にそれと同じぐらい、妬みとやっかみと中傷と攻撃が襲ってくる。本が売れるということはそれらを全部背負って引き受けるということ。
本が売れるのは二度目なので、売れることに伴って生じてくる良い事も悪いこともすべて二度目である。
前回は2002年の暮れに『現代アラブの社会思想』で大佛次郎論壇賞をもらった時。あの当時は、若い、しかも「研究員」という立場で賞をもらうということはありえない時代だったので、テーマへの関心と共に意外性もあってものすごく売れた。瞬間的に5万部近く売れた。後輩が「紀伊国屋書店に行ったら縦横3mぐらいの平積みの台が全部アラブ・アラブ・アラブ・アラブってなっているんですよ!」と見に行って驚愕して教えてくれた。当時は自分で見にいく心の余裕はなかった。
あの頃は「アラブ」とタイトルに入っている本は特殊な傾向のある出版社の政治宣伝文書みたいなものが多く、一般書店で平積みになるなどということは考えられない時代だった。
それから時代が一回りして、今回の二度目のベストセラー化については、生じうる反応をある程度予想できるので、かなり淡々と対処している。淡々とするだけでなく、今しかないのだから多少は楽しもうという気になっている。
本が売れるのが二度目であるというだけでなく、父が大学の教師であり、かつ本がそこそこ売れて話題になる生活をする人であったということも、私が肯定否定両方の反応を予想できる理由の一つだ。そういう状況に置かれた時の心構えを、父が体験者として食卓で語るのを聞いたり、父が語らないけれどもその姿を見て感じたり、何年もしてからあの時父はこのようなことに直面して、このように考えていたのではないかとふと思い当たることの積み重ねで、こういった時の身の処し方を私なりに考えて、特に売れていない普段から心構えとして身につけていたと思う。まあ特に売れていない普段といってもとんでもなく仕事の依頼は多いからものすごく忙しいし、売れたときにくる依頼というものは、大抵私に向いていないものなので、単にお断りすることで忙しくなるというだけなのだが。
本が売れた時に父が言っていた言葉。
「売れようと思って本を書いちゃいけない。いい本が売れるわけじゃない。でも売れない本だから良い本だってわけじゃないからな。もし本が売れちゃったら?ありがたくいただいておけ」
父は若い時から業界から注目される学者だったのだとは思うが、本が売れる人ではなかったはずだ。本が一般的に売れるなどということはない普通の学者だった。それが1988年に刊行が開始された「ちくま文学の森」の編者のひとりになって、そしてこのシリーズが文学業界にとっての大ヒットになったことで、「売れ」だした。私はその時中学生で、父が「売れる」人になっていくのを家庭の中で見ていた。
自分が書いた本が突然なんらかの理由で「売れる」ようになるという体験を自分もするようになった時に、自分と自分が置かれた状況をどこか客観視して見てしまう視点を私の中に備え付けたのは、「売れる」ことによって生じてくる良いことにも悪いことにも、淡々と対処していく父の姿を、精神形成期の最も重要な時期に見て育ったからだと思う。
本が売れた時の反応で、業界関係者は3つに分かれる。(1)昔から一緒にやってきてくれた人たちが、まるで自分のことのように喜んでくれる。(2)昔からこちらを気に食わないと思っていて、自分の方がなんらかの理由で上だと思えていた人たちが、こちらの本が売れたり賞をもらったことで逆上して一定期間しばしばとんでもない行動に出る。中傷・陰口が噴出し、そのうち一部は怪文書となる。当時のメディアはFAXでした。(3)大多数の中立の人たち。根本的には、こちらのことにも、中傷しに来る人のことにも、関心はない。では無関心かというと・・・同じ学者や物書きで、売れた本や評価を受けた本や人に、関心がないわけがない。すごい関心がある。一挙手一投足を見ている。こちらに会ったこともないのに(笑)。もちろんそれぞれは人間だから妬みも嫉妬の感情もある。だからと言ってそれで怪文書を流したりもしないし悪口を完全に信じもしない。ただし、ちゃんと怪文書も見てるし悪口も聞いている。時には頷いたりもしている。
(3)の人たちは敵なのだろうか?というと、そうではない。だが味方では絶対にない。彼らを味方につけようとなどとは絶対にしてはいけない、というのが父が語ったり、あるいは姿で示していたことだと思う。本が売れるとわかる、人間はひとりであり、誰も他人を助けてはくれないということ。どんなに不当な中傷や陰口でも、本が売れてるんだからそれでいいでしょ?ということなのかもしれないし、自然な嫉妬心もあるだろう。そして、大多数の人は、他人のことはどうでもいいから、怪文書を相手にもしなければ、怪文書を流されている人のことを助けもしないのである。
(各出版社にFAXで「池内紀の本は誤訳だらけだ」との怪文書が送りつけられ、朝その一報が知り合いの編集者から入り、状況を把握した後・・・)「おかげで仕事がたくさん入ってしまった」。
なぜかというと、怪文書では「池内紀の誤訳」なるものの例の横に「正しい訳」と称するものが付されていたのだが、それがいかにもパッとしない先生がやりそうな、読むに耐えない独文直訳体で、とても出版には適さないものだったからだそうな。こんな非常識な人に攻撃されているということで、かえって信頼性が上がってしまった。
もちろん怪文書は匿名なのだが、「あの人なんじゃないの?」という話は業界でひそひそいわれた。父は否定も肯定もしなかった。ただ、その人の信頼性は落ちた。そんなことをしなければもっと評価される場面もあったかもしれないのに。証拠がないかというと、文学などの業界で怪文書を流す人は、自分を評価しろと言いたいわけだから、無意識にでもどこか特定できる痕跡を残している。だが、それを追及してもこちらには何の得にもならない。開き直ったりかえって売名行為に使ったりするようになるよりは、放っておくほうがいい。
Facebookからの引用はここまで。
「イスラーム国の衝撃」の発売日は2015年1月20日。
良いことも、悪いことも全部引き受けるって書いてあります。先生がご自身の著作について考えておられることは、ここに込められていて、それはおそらく今もそんなに変わっていないんじゃないかな。
その昔、先生がクソリプ返ししていたのを載せてしまおう。
先生の最後の煽り方好き。
先生だって、自分が書いたものに自信がないわけがないでしょう。自分が書いたものがずっと読まれていて版を重ねていくって嬉しいことでしょうし。賞をもらったことも、誇りに思われていることでしょう。
それを、自分が1番じゃないと気が済まないんだな、とかなんとか言って笑う人がいたら、その人はやっぱりご自分の心をよく見直した方がいいと思います。
というわけで、勝手な解釈や憶測で謎の風評を広めるのはおやめ下さい。
今回は以上です。お読み下さってありがとうございました。
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