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【 1st ESPIAL 】文章論とは自分で作り続けるもの

文章論とは文章を書くヒントコツや注意点をまとめたものである。出現率はネット広告レベルだ。もちろん読む読まないとかレビューするしないは自由に決まっている。問題は誰でも文章が上手くなれると主張されまくるわりには、一向に文章論が打ち止めにならなかったり、文章が上手くなりたいだけなのに作者の思想信条や趣味嗜好が抱き合わせ販売され倒すのだが、それはなぜか? 


実は文章論によって一番パワーアップするのは作者だからだ。

肝心要の部分が秘密主義だから、次から次へと自分の文章論ラブで溢れかえり、思想信条と趣味嗜好のプレゼン大会が日夜、繰り広げられてしまう。つまり文章論が伝えるべきは【文章論は学ぶのがスタートで作り上げるのがゴール】ということだ。

考えてもみてほしい。自分が誰かにまとまった文章論を提供するには、自分の文章づくりを一通り点検し、文章づくりにまつわる質問や疑問に答えられねば話にならない。ぶっちゃけ文章づくりが上達しない文章論では未完成なんである。

だが文章論のスタートとゴールを教えてくれる人なんて、見たことも聞いたこともないだろう。自分の文章論で「みんなの悩みが減ったらうれしい」とか「私なりの答えなのだ」と言い残して立ち去ってしまう。このままではいけない。謎の使命感に目覚めたところで話を続けよう。

私にとって文章とは規定演技の文章と自由演技の文章に分かれる。ざっくり言えば、前者は学術論文や小論文、レポートや報告書など、宛先の規定によって書き分けるもので、後者は詩歌や小説や戯曲など自由意思で書き分けるものとなる。学び方としては、まず規定演技の文章を身につけていき、文章を書き慣れて余裕が出てきたら自由演技に挑んでいくのが良い。なぜなら規定演技の目的はひとつだが、自由演技の目的はたくさんというか常に増え続けているからだ。新たな目的を見出すのが自由演技の醍醐味だったりする。

話を戻そう。規定演技の目的はただ一つ【手早く内容を判断できる】ことだ。ちゃんと作業していれば、論文や報告は次から次へと新しい物が提出される。内容が研究や業務に必要かどうか早く知りたいのが人情だ。最初に結論が示され、次に結論を導いたデータが挙げられ、最後に結論への解釈が加味される。ぶっちゃけ結論だけ読めば、その先を読むべきかどうか判別できる。修飾や情緒はおまけに過ぎない。これでいいのだ。

こうして規定演技を続けていると人間というのは、だんだん遊び心がウズウズしてくる。そういうものだ。まさしく自由演技を始める準備が整ったサインだ。あとは好きにすればいい。

さて、どうでしょう?




壁l・ω・) 壁l)≡サッ!!