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映画「お嬢さん乾杯!」を観て:自己愛の意味

1949年の松竹映画「お嬢さん乾杯!」。監督は木下恵介。時は戦後の混乱期。没落貴族の令嬢ともいえる原節子と、戦後成金の佐野周二のラブコメディーですが、実は深い。ステレオタイプからずらした脚本が秀逸です。(脚本:新藤兼人)

粗暴な成金の佐野は、「天上の美女」の原に一目惚れ。叶うはずないと思った求婚に、「はい」との返事。驚き、舞い上がる佐野。しかし、原の自宅(豪邸)で家族に紹介された佐野は、身分の違いにたじろぐ。やがて、結婚が金目当てだとわかり落胆する佐野。一方の原は、家のための結婚と割り切ったつもりだったが、迷いも・・・。

面白いのは、成金の佐野は好人物なこと。小悪党であればわかりやすい物語だったでしょう。佐野の純粋な愛に対して、原は不純でありそんな自分が許せないとも思っているはず。

佐野はひたすら原の関心に関心を持とうと努めます。聞きなれないクラシック音楽、バレエを好きになろうと努力します。原の家が、とうに売り払ってしまったピアノを、誕生祝いでプレゼントしたり。(これまで原に関心を持った男性はあまたいたことでしょうが、原の関心に関心を寄せた男性がどれだけいたことか)

原も何とか佐野を好きになるべく、関心を持つ努力をするのですが、うまくいかない。つまり、相手の関心にまで関心を持つ佐野と、相手に関心をもとうとする原との間のギャップが描かれる。

佐野は原と比較して身分が低く教養もなく、ただ金儲けだけが得意な自分を卑下します。しかし、彼は自分のことを、根底では愛している。だから、本心から愛してくれているとは思えない原と別れる決断をします。いくら天上の美女であっても、自分を愛していない原と結婚することは、自分を裏切ることになるからです。それだけ自尊心が高いとも言えます。しかも、原の家の借金の始末までして。

一方の原は、美貌と教養に恵まれながら、自分を愛せていない。それは家が没落し、金目当てでの結婚を決意したからではなく、他者を愛せなくなってしまった自分を許せないからだと思います。原には相違相愛の婚約者がいたものの、死別したことが明かされます。未だに、その婚約者を忘れられないのです。そうした欠落を持つ自分を愛せないのです。

ところが、悩みながら結婚を断念した佐野の気持ちをバーのマダムから聞いた原は、これまで佐野がしてきた数々の粗野な言動が、一気に好ましいものへとひっくり返ります。(ここの木下の演出は素晴らしい!)

愛をもって自分の関心に関心を寄せてくれた佐野によって、原の凍えていた心が溶解し、自分を少し愛せるようになったのでしょう。こうして、実家に帰るべく東京駅に向かう佐野を追いかける原の姿を映して、映画は終わります。


この映画は、自分を愛することの意味について考えさせられます。単に自惚れることと、自分を愛することとは異なります。自惚れは世間の評価や損得で計りますが、自己愛とはそれらとは無関係です。自己愛(自尊心)を持つ人は、自分に大切なことを知っている。

佐野は自惚れるどころか卑下していますが、本当のところでは自分を愛しています。一方、原は世間的には優れているとみられるでしょうが、自分を愛せない。自分を愛している人は、他者も愛することができ、他者の関心に関心を寄せることができる。そして、関心に関心を寄せることが、相手の自尊心を高め、生きる意味を見つけさせるような影響を与えるのです。


この自尊心と、関心に関心をもつことの重要性を教えてくれたのは、「沖縄から貧困がなくならない本当の理由」の著者の樋口耕太郎さんです。

私がこれまで会ってきた人の中で、この人は凄いと感心する方が何人かいます。そうした人たちに共通するのは、自尊心の高さです。(利己心ではありません)

自分を愛する人は、自分を必要以上に大きく見せる必要を感じないから、威張らないし、自慢しない。彼らは、自分の弱さや欠点を認め、失敗を隠さず、間違えれば素直に頭を下げ、打たれ強い。  (「沖縄から貧困がなくならない本当の理由」p137)


たまたまこの映画を観たときに樋口さんの本を読んでいたので、映画の意味づけが私の中で変わったのかもしれません。これも出会いですね。

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