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社会を変えるために欲望の水準を上げる

人類にとって、現在最大の問題は間違いなく気候変動です。また近い将来現れる大きな問題として、AIの暴走を予想する学者がいます。

今朝の日経新聞掲載のフィナンシャル・タイムズのコラム「社会というソフト 改定を」は、この二つの問題を関連付けたとても興味深いものでした。

その中で、懸念されているAIの暴走の前触れが既に起きており、それは多国籍企業(グローバル企業)という形で社会に現れているとの、米カリフォルニア大学バークレー校スチュアート・ラッセル教授の以下の指摘が述べられています。

多国籍企業は、人間が株主還元を優先して資源枯渇や環境汚染といった外部性を無視するように「プログラム」した結果なのだ。

つまり市場原理主義に基づくプログラムが暴走して気候変動を招いているのと、人間が自らの利益追求のために設計したAIプログラムが暴走するのは、同じ構造だというのです。

市場原理主義とは、要するに「儲けるためには何をやってもいいという」考え方です。そのプログラムを中心として書いたのは、シカゴ大学のミルトン・フリーマンです。フリードマンはベトナム戦争において、自由主義を守るためにベトナムに水爆を投下し何百万人だろうが徹底的に排除すべきと主張したことで知られています。また、彼は一貫して麻薬の取り締まりに反対していたことでも知られています。その理由は、麻薬による快楽と麻薬中毒による苦しみと、どちらかを「選択する自由」を奪ってはいけないからだそうです。そうした思想の持ち主が書いたプログラムなのです。(「人間の経済」宇沢弘文著より)

利益を追及してやまない市場原理主義は、我々日本人からするとちょっと極端に思えますが、かつての水俣病や公害問題もその現れだったように思えますし、現在の株主重視経営に由来する格差拡大も、同様と思われます。最近のカジノ解禁の動きも同じ系譜でしょう。

市場原理主義に限定せずとも、資本主義はもっと豊かになりたい、成長したいとの人間の欲望を燃料としています。その結果、市場原理に乗りにくい自然環境がどんどん搾り取られていっているわけです。しかし、市場原理に乗りにくいのは自然環境だけではありません。

自然環境のみならず社会そのものの崩壊を懸念した宇沢弘文先生は、市場原理に乗りにくい医療や教育、都市、農業などを社会的共通資本とし、専門家による自主管理を提唱しました。

また最近のベストセラー「新人生の資本論」で斎藤幸平氏は、コモンを基軸にした潤沢な脱成長経済を主張しています。

しかし、現在の世界規模での危機を、社会制度や技術で克服しようとしても、カネを最重視する人間の「欲望の水準」を上げなければ、解決は遠いでしょう。それを上げて「プログラム」を書き換えなければ、暴走を止められません。

では、どうすれば欲望の水準を上げることができるのでしょうか?

現在では考えられませんが、私が子供の頃は、道端にゴミを捨てることに人々はあまり抵抗感がなく、また電車の窓からもごみを捨てる人も珍しくありませんでした。なぜ、そうした行動をしなくなったのでしょうか?町が少しずつ洗練されることで、その環境に適応して人々の欲望の水準が上がり、「道を汚してはいけない」と考えることが普通になっていったからだと思います。(NYの「割れ窓理論」も同様か)

デザイナーの原研哉氏は、こう書いています。

身の回りにある製品や環境は、私たちの欲望や意識という「土壌」からの収穫物です。(中略)都市はデザインされるものではなく、人々の欲望の結果です。欲望や感覚が洗練された瞬間、ひとつステップが上がります。デザインは、欲望の根底に影響を与えるものです。(中略)よく考えられたデザインに触れることで「土壌」が耕される、すなわち欲望の水準が上がり、結果として暮らしや都市が変わる(日経新聞夕刊「デザインの役割を問う」③)

原氏は製品デザインからの発想を、社会のデザインに拡張して考えています。人間の欲望の根底に影響を与える、社会のデザインとは何でしょうか?単なる見かけではないものなのでしょうが、よくわかりません。

市場原理主義や既得権益をベースにした社会デザインではなく、別の新しい洗練された美しい社会デザインの一端にでも接することで意識が「耕され」、欲望の水準を上げていく。そんな活動の積み重ねが波及効果となって、社会全体の欲望の水準を上げていく。きっかけは、ちょっとしたことかもしれません。


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