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人間であるということ

サン=テグジュペリは、こう書いています。

人間であるということは、とりもなおさず責任を取るということだ。
人間であるということは、自分には関係がないと思われるような不幸な出来事に対して忸怩たることだ。
人間であるということは、自分の僚友が勝ち得た勝利を誇りとすることだ。
人間であるということは、自分の石を据えながら、世界の建設に加担していると感じることだ。


人間とそれ以外の生き物を峻別しているものの、エッセンスがシャープに切り取られていると思います。ホモサピエンスは身体的には弱い生き物なのに、なぜ生き延びることができたのか、その理由がここにあります。

ヒトは、一人では生きていけません。自分を超える他者や集団、さらに大きなもの、例えば神であったり理想であったり美であったり(それらをハラリは共同幻想と呼びました)、そうしたものとつながり、その一部となることができたから、身体的には弱くでも、現在の位置を占めることができたのです。

ひとつめの責任とは、そうした自分を超える集団(ヒトの存立基盤)を維持するために、不可欠なものです。責任を果たせなければ、信頼も生まれず、信頼がなければ秩序を維持するために、監視や罰が必要になってしまいます。リバイアサンの世界です。それでは、たとえ秩序があったとしても、人類はここまで進歩はできなかったでしょう。

二つめは、共感する想像力です。ヒトは助け合わなければ生きられません。

「たまたま彼らだった私」と「たまたま私だった彼ら」という観点こそが、人間という集団をここまで生かせてきたのだ。

と、いとうせいこうが書いていますが、想像力がなければ共感できません。共感できなければ助け合うことはできません。想像力は集団には不可欠な能力ですが、その重要性が現在の教育ではすっぽり抜け落ちているように思えます。

三つめは、妬みや嫉妬を抱かぬこと。弱いものへの共感はできても、自分より強い僚友(同列の仲間)を称賛することは実は、なかなか難しいことです。ヒトは、自分自身を相対的に評価するので、比較対象となりうる他者(大谷翔平ではなく)を称賛することは、自己を貶めることにつながりかねないからです。自己保存欲求が満たされません。しかし、それでは足の引っ張り合いになるかもしれず、人類は進歩できなかったでしょう。自己を超える存在に資することになるのであれば、たとえ自分を貶めることになったとしても、他者の勝利を誇りとすべきですし、またそうしてきたのです。

四つめは、これまで述べてきた自己を超える存在の一部として自分を捉えられること。つまり、自己存在の意味を見つけることができることです。自分は自分のために存在するのではない。もっと大きなもののために存在するのだという、自己存在の「意味」を感じられること。それが、ヒトと他の生き物を隔てる最も大きな違いだと思います。

たとえば知識。

なにかを知るということは、身軽に飛ぶことではなく、重荷を負って背を屈めることになるのです。

と、福田恆存は書いています。

知識を誇っても無意味です。そうではなく、知ったものの責任として、知ったことによって開けた未知に対するために、そして自己を超える大きな存在に近づくために、人々の声に耳を傾けまた発言する必要があります。それは、重荷であり背を屈めることになるでしょう。そうしたスケール感で物事を捉えることができたので、人類は進歩できたのです。


逆に言えば、これらと無関係に生きているとすれば、それはもう人間としては生きていないということになります。

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