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ケアの倫理と正義の倫理

私はかつてJR中央線で通勤していたのですが、朝の出勤時にかなりの頻度で人身事故による遅延が発生していました。明確にはされませんが、そのほとんどは向かってくる電車にホームから飛び込む自殺によるものだと誰もが思っていました。私もです。アナウンスが流れるたびに、口には出しませんが、「なんでこんな時に飛び込むんだ」と苦々しく思ったものです。電車の遅延によって、仕事に支障をきたすかもしれないというような、自分のデメリットを考えて。そこには、どんな思いで飛び込んだとか、家族や友人はどんな思いをするだろうかと想像することは、ほとんどありませんでした。
 
確かに、公共交通機関を一時でも停めて、膨大な利用者に迷惑をかけることは、いいことではありません。秩序を乱し人々に損害を与える、社会正義に反することでしょう。多数者の便益を、少数者の都合で損なってはいけないという原理・原則。いわば、多数決の原則、最大多数の最大幸福・・・。
 
私たちはこうした「正義の倫理」を第一に考えます。松尾陽名古屋大学教授(法哲学)の言葉から引用します。

「正義の倫理は、人びとの悩みに対しても、その個別性を切り捨て、正義の一般的な原理・原則から答えを導きだそうとする。」
「正義の倫理は、自律的な人間像を根底に据えており、憲法の根源的な部分にあるリベラニズムの立場である。」

朝日新聞朝刊「憲法季評」2023/2/9

自立した自律する個人を前提に、多数者が「正しい」と考える原理・原則に従って考え行動する。こうした正義の倫理が現在のデフォルトであり空気です。だから、「自己責任」が追求される。
 
しかし、ある時ふと、そういう自分の思考パターンに気づきました。自分の損失には敏感に反応するのに、他者(飛び込んだ人)の思いを想像することをしなかった自分が、ひどく「みすぼらしい」と感じました。
 
では、正義の倫理に対抗できる「倫理」はあるのでしょうか?
 
松尾教授はそれが「ケアの倫理」だといいます。

「ケアの倫理とは、アメリカの発達心理学者キャロル・ギリガンが提唱した概念であり、人びとの悩みに個別性に寄り添おうとする姿勢のことをいう。」

朝日新聞朝刊「憲法季評」2023/2/9

わかりやすくいえば、例えば目の前に悩んで困っている人がいるとして、「自分でしっかり考えなさい」と正論で諭すか、自分の考える解決策を滔々と述べるのが正義の倫理で、とにかくひたすら話を聴くのがケアの倫理。
 
2/14の朝日新聞朝刊「折々のことば」(鷲田清一)にこんなことが書かれていました。

「私・・・薬物がなかったらとっくに死んでいたと思う」
              (ある薬物依存症の患者)

「週刊医学界新聞」(2月6日号)から

ある依存症担当医は、担当医になりたての頃患者にそれをやめさせるべく厳しく対応していました。なぜその患者が薬物に走ったのか、その過酷な生い立ちにまで想像が及ばなかったからです。その医師は冒頭のことばに触れた後、「大変でしたね。でもよくこれまで生きてこられましたね」と、患者をまずは労うようになったそうです。
 
正義の倫理では、薬物をやめさせるよう厳しく指導するのが普通でしょう。でも、それでは治らない。人間は複雑な存在です。この医師は患者の一言から人間に対する洞察を得て、ケアの倫理に切り換えたのでしょう。そして、それが正しかった。
 
似たような話が、翌日の新聞にも載っていました。アルコール依存症を治療中の夫が、ある日我慢できずコンビニで酒を買い飲んでしまった。それを後悔し、翌日妻に打ち明けると、妻は「わかってたよ」という言葉を返した。夫曰く「あのとき非難されたら、飲み続けたかもしれない」。それが最後の酒になったそうです。(朝日新聞朝刊2023/2/15より)
 
これも正義の倫理に従えば、妻は夫の飲酒を知った時点で厳しく咎めるべきでしょう。少なくとも、見て見ぬふりはしない。でもそうはしなかった。その時の状況や夫の事情や性格などの個別性を考慮した上で、あえて何も言わなかった。これがケアの倫理です。
 
経済的利益を追求すべき企業組織においては、合理性や効率性を重視して多数決で判断するのは自然なこと。だから正義の倫理がある程度まかり通る。でも、実は経済合理性が効果的に機能するのは、社会生活するうえではほんの一部です。それにも関わらず、まるで社会全般が正義の倫理に従うかのように錯覚されているのでないでしょうか。(「炎上」もその表れか?)
 
かつて日本のどんな村(集落)にも、寄合というものがありました。村人が様々な問題を相談する会議のようなものです。

百姓が、村の中で寄合う行為をします。ここで、会議をします。総会みたいなものですが、村の最終的な意思決定機関となります。これは、全員参加型が基本でありまして、そこでの決定は基本的には、全員一致です。要するに、そこで、意思統一をするのです。これは、一人でも何か違う考え方を述べますと、それを取り上げて延々と議論します。強行採決というのはしません。諄々と説得するとかというような形でやります。私がある資料で見た限りでは、3日、4日ぐらいずっと一つの事を議論しているというのがあります。

https://www.manabi.pref.aichi.jp/contents/10003363/0/kouza/section2.html

企業のような機能組織体では多数決がフィットしますが、それ以外の組織体(特にコミュニティ)では全員一致が正しいように思います。こういう姿勢も、ケアの倫理といえるでしょう。でも私たちは、多数決が民主的で正しいと思い込んでいる。
 
そもそも、正義の倫理も絶対的なものではなく、突き詰めれば「多くの人々が正しいと考える基準を、自分はこうだと考える」という結構曖昧な物差しかもしれません。つい「普通こうするだろ」と、私も言ってしまいますが、何が普通なのか?
 
少し話が逸れますが、先日観たTV番組で、養老孟氏がこう言っていました。

「自分の基準に従うなんて、伸び縮みする物差しで測るようなもの。だから外に変わらない物差しを求める。私の場合、それが虫。」

「まいにち養老先生、ときどき…2023冬」より

なるほど、と思いました。生きていくうえで、自分が信じ込んでいる基準だけで判断することは、実は危うい。不変の自然界に基準を求めるのは、理に適っています。(私の場合は、虫ではなくタイトル写真の猫か)
 

規模と成長を重視する社会では正義の倫理が有効でしたが、これから否応なく進む成熟社会においては、ケアの倫理の重要性がますます増していくことでしょう。

おまけ:私自身、成熟年齢に達しつつあるからか、
「ちんけな正義感や自尊心、しみったれた損得勘定からオサラバ」
と、日夜唱えております。
 



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