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ケアでひらく
今、「ケア」にとても関心があります。最近感銘を受けた本は、いずれもケアに言及していたからかもしれません。たとえば、
「センスメイキング」(クリスチャン・マスビアウ著)
アルゴリズムにはさまざまな可能性があるが、関心をもつ(ケア)という行為はできない。まさしく関心を寄せ、気遣いをするために人は存在するのだ。
「ブルシット・ジョブ」(デヴィド・グレーバー著)
もしも、「経済」なるものに何か実質的な意味があるのだとしたら、それは当然、人間が ー命を守るためにも、活気のある生活のためにもー 互いをケアする手段を指し示すものであるはずだ。(中略)たぶん経済とは、もはやその役割を終えたアイデアなのだ。(前回参照)
「居るのはつらいよ」(東畑開人著)
そう、「ケアとセラピー」は成分のようなものです。人が人に関わるとき、誰かを援助しようとするとき、それはつねに両方あります。
「沖縄から貧困がなくならない本当の理由」(樋口耕太郎著)
人が自分を愛するために、私たちが究極的にできることは、「その人の関心に関心を注ぐこと」だ。
市場主義に基づく経済や社会、そして科学の限界が見えてきている現在、ゆきつくところはAIとかアルゴリズムではなく、人間自身、そして人と人との相互依存関係がどれだけ豊かなものになるかだと、漠然と感じています。
人間は、工業化以前の社会→工業化社会→成熟社会へと移行するにしたがって、家族や共同体の中で行われていた「ケア」を外部化し、社会制度化してきました。成長や効率には、そのほうが都合よかったのです。
また、日本では戦後の高度成長期に農村共同体が崩壊し、その一部を「会社」が代替してきましたが、バブル崩壊後、会社が共同体の機能を果たすことは難しくなってきました。
そして、現在のコロナ禍。人と人がリアルに顔を合わせてコミュニケーションをとることすら難しい状況。「同じ釜の飯を食う」ことはできません。最近さかんに、会社と従業員の関係を「メンバーシップ型」から「ジョブ型」に移行すべきだと語られているのは、こうした共同体とケア基盤の崩壊の帰結なのです。
しかし、もともと人類は共同体とともにあった生き物です。ケアへの欲求は本能とも言えます。このままでいけるとは思えません。(政府は「家族」にケアの基盤を求めるかもしれませんが。)
これまでは、損得で結びつき成長を基本原理とする市場主義経済が人間の「生活」の大部分を占めてきましたが、現在は地球環境も含め、その限界が露呈しています。人間の本能に叶ったケア、すなわち人と人との間の関心の交換、を基本原理とする社会を構築する方向に舵をきるべきときかもしれません。
ケアをキーコンセプトにして、凝り固まった既存の社会や経済を「ひらく」ことができるかも、そんなことを妄想しています。
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