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読(web)書日記 2024/4/26

 『応答責任』について考える日々。大人の責任として、自分の使える特権や能力を使って、厳しく自分に突きつけつつそれぞれ格闘している「大人」たちが自分より下の世代の人たちばかりというところに感じる希望(クレバーで勇気のある若い大人たちに)と絶望(自分と同世代以上の無邪気や無気力な中高年の大人たちに)。

マコイチ:エンタメ業界では、ポリティカルな話題にはなるべく触れないほうが波風立たないので無難である、という間違った認識があるように思います。社会が悪くなったら真っ先に影響が出る業界なのに。

実は、音楽と能力主義や功績主義は結構相性がよくて。自分は人より才能があって努力もしたんだから、政治から離れた場所で、クリエイティブで自由に生きていられるような気になっている人もいると思います。でも、そういった人の多くはただ単に現政府の元でネオリベ的に成功しているだけですよね。

職業に関係なく大人はみんな社会に対する責任があるし、ミュージシャンは人前で発言できる場面が多く、よりその責任を果たしやすいので、社会に対するメッセージをしっかり伝えていかないといけないと思います。

あしたメディア 2024/4/24付
音楽で、デモで、差別に抵抗する。思い出野郎Aチーム高橋一さんインタビューより

 昨年の国会前での高橋一(マコイチ)さんのスピーチを覚えている方もいらっしゃると思いますが、そこから更に視野と出来ることを着実に広げていて、現場第一主義になりがちな社会運動も(現場が重要なのは勿論の上で)こうして各自が各所で出来ることを模索していくことで変化を生むことが出来るのではないかと希望を感じます。

 昨年のスピーチ全文が入った記事はこちら。1年経ってその言葉を読み比べると、より先へと進まれていることが分かると思います。

ーーツイッターや公式ブログで政治的な発信をする背景は?

 ものを作って販売しているだけでも、情勢不安や戦争が起こると金の価格が高騰したり、コロナ禍で石の調達ルートが変更になって輸送費が上がったり、工業製品の進出や少子化高齢化等などで職人の数が減ったり、本当にいろんなところに直接社会の影響がありますよね。
 なにをしていても政治は生活に直結するものだと思っているので、きっと八百屋さんをしても食堂をしても絵を描いていても写真を撮っていても、今みたいな発信はしていたのではないでしょうか。ただ、(生活に直結する)“生活必需品”からは遠い存在である嗜好品を対象にしているからこそ、よりひしひしと発信の必要性を感じます。ジュエリー業は、社会に(金銭的・精神的)余裕がないと、簡単に立ちいかなくなります。
 本や映画、旅行、音楽、舞台など、これらも“生活必需品”ではないと判断されてしまうと近しい存在かもしれませんが、その中でもジュエリーは非常に高価なもの。私はずっと瀬戸際であると感じてます。似た境遇にある業界や仕事はたくさんあるはずなのに、むしろ「なんでみんなはしないの?」とずっと疑問です。
 経済的に10年前と比べて、「(30万円ほどのジュエリーを)奮発して買っちゃおうかな」と思える人の数だって減っています。すごくほしくても買えない状況にある場合、それは絶対にその人の努力が足りないっていう話ではないんです。
 特に嗜好品であるジュエリーを扱っている以上、そもそもジュエリーを買える人が増えて、できるだけ多くの人が楽しくお買い物できる社会になったほうがいいと思って声をあげつづけています。

COSMOPOLITAN  
選挙割の実施も!ジュエリー屋が「政治的」な発信をつづける理由より

 以前アルビジアさんと、同じくオリジナルアクセサリーを京都で作っていらっしゃるnichi nichiさんのお二人で発行したフリーペーパー『反骨装身具通信』(最高なタイトル)を「スナック社会科で配布させて欲しい」と申し出てからのご縁で、やっていることは全く違うのだけどエールを送り合うアルビジアさんの記事。ちなみに会った事はまだない(笑)。
 以前、アルビジアさんのジュエリーは素敵だけど今の私には買えないなーと呟いたら「ジュエリーは歳を取るのを楽しくするアイテムなので、サトマキさんの人生のタイミングでご来店いただければ!」とリプをいただきシビれました。「人生のタイミング」!、射程長すぎ!ブームや世代、時代なんぞに囚われないものづくりをする気骨を感じました。しかし、贅沢品であるからこそ、社会が良くないと困るというのは本当にそうだと思うのですよね。黙ってやり過ごすこと、仕事ではなく作業に逃げてものを考えることをやめること、もうそれで自分と身の回りだけは逃げ切れる…というタームはとっくに過ぎたと思っています。「大人」で「仕事」を大切にするからこそ声を上げていくべきでは?とアルビジアさんのインタビューを読んで改めて思いました。

 そして、本日は仕事帰りにこちらに途中参加してきたのですが、前回のおでん会に来て下さったお若い皆さんが次々にスピーチで壇上にあがり、力強いスピーチをされていてリスペクトするとともに恥ずかしい気持ちでいっぱい。なんで若いひとたちにこんなことさせてるんだろう。なんで若いひとたちが自分より上の世代たちがサボってきたことを引き受けなきゃいけないんだろう。
 ある人は「マジョリティである自分の責任」を話してた。ある人は入管法の中の「永住権取消し」について「(日本政府を)軽蔑します」と力強く吐き捨てた。ある人は、個人で寄付を募ってパレスチナの友人たちに送金していると言って「なんで国がやんないの??」って泣きながら叫んでいた。
 これらに大人はどう応えますか?冷笑?皮肉?発言の本意と関係ない外見や言葉遣いの揶揄?もうそういうの見飽きたし、うんざりしている。1ミリも生産性も前進もない。

 そして、大人の応答責任を考えたときに、数少ない見上げる大人であるケン・ローチのインタビューも読むべきところがたくさん。
 前作『Sorry,I miss you』が『家族を思うとき』とくそみたいなタイトルに邦訳されたり(が、全人類に観てほしい1本です。)、「弱者に寄り添う視点」みたいな優しさ語りされたりしがちなケン・ローチ監督ですが、一貫してクールでストイックな方だと思います(もちろん優しい人でもあるのでしょうが優しさなんぞでは何も解決しないということも良く分かっておられる方だと思っています)。

 あと、これはおまけですが、イスラエルのネタニヤフ首相に「反ユダヤ主義」と言われカンカンに怒るバーニー・サンダース氏。元気出る。こういう不正義に対してカンカンに怒る大人がいないことがそもそも問題。

 話は飛ぶけど、スナック社会科をやっていて、今まで様々な方にご出演いただきましたが、自分より年上のゲストを呼んだことは実は一回しかなくて(藤井誠二氏)、年令で選んでいるわけではなく、「この人の話を聞きたい!それをシェアしたい!」と思う人が結果的に全員自分より若い人たちばかりという。 
 そして上記に引用した方々(国会前のデモ含め)も若い人と、自分より更に上の世代の人で国外の人(ケン・ローチとバーニー・サンダース)で、本当に引きたくなる中高年がいない。凄い人数が多いはずの団塊ジュニアが丸々空洞化。このことをどう捉えたらいいのかもずっと考えています。

 昨日の帰りも大変だったのですが、たまに都心に出ると人身事故が多くて、毎日都心に通勤していた頃もその度にしんどくなってたことを思い出します。いつだって死は隣りにあります。自分の生に含まれています。それがガザでも新宿駅でも、「今ここでじゃないでしょう?」というところで選択してしまう、追いこまれてしまう、そもそも選択肢がない、その理不尽と不均衡にずっと怒りがあります。その理不尽と不均衡を作り出しているのはこの社会なので、この社会で生きる我々全員が無関係ではありません。自分にも向きます。
 地獄を上手に乗りこなす方法が商売になる昨今ですが、地獄に過剰適応する必要はないだろうと思います。地獄化を止めることや、なんで地獄になったのか考えるほうが先じゃね?

 飛ばした話を引っ張ってしまった。オチもまとめもないのでこのへんで。やはり社会科で資本主義やらなきゃなー。


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