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スナック社会科横浜映画祭#2「特集:飯山由貴」が終わりました②

 本日はいただいた事後アンケートや感想ツイートからご紹介(公開の許可は得ています)。

千葉県 会場参加 akkoさん
 ”hidden names"の上映が始まって、ビールを飲みながらポカンと見始めていました。
 王子脳病院という精神病院の記録は興味深かったです。入院患者同士で親しい人もいればケンカをすることもあるとか、イベントがあったり日常があったりと、残された当時の記録から、精神を病んでいても外と変わらない風景があったのは(むしろ楽しそう)、いろいろな情報から精神病院というところに良い印象がなかったため意外でした。
 当時の診療は毎日患者にその日の状態を聞くということがされていたそうで、投薬に頼った治療ではなく、現在の精神医療よりも良かったのではないかなどと、処方薬で家族を廃人にされた者として感じていました。(もう少し詳しく調べないとわかりませんが)
 患者さんの中に朝鮮の人がいて毎日の問診に何も答えなかった、そういう抵抗もあったということも記録されていて、固い決意で答えないことを続けるのは相当な精神力がいることなのに、本当に精神を病んでいたのか、とも思いました。しかしそうせざるを得ない彼らが受けていたであろう仕打ちを、想像することすらできません。
 途切れることなく”In Mates" が始まり、はて今がいつなのか、わからなくなっていました。帰るところなんて無い、どこに行けというのか。今いる場所の居心地の悪さは、100年前と今とどれほど違うのだろう?演じているFUNI氏の言葉からはずっと地続きにつながっていると教えている気がしました。
 ”あなたの本当の家を探しにいく”は残念ながら音が聞き取れず、座席から字幕を見ることができなかったので、会話の内容はわからなかったのですが、統合失調症を病んで苦しんでいる妹さんの世界に入る試みはユニークでした。いつも「ここじゃない」と感じている私にもどこかに帰ろうとする感覚は共感します。
しかし私は身内にこれはできませんでした。
 全体を通して感じたのは「境界」がどこにあるのか、ということでした。狂ってるのはどちらか、「正常」や「正義」と思っている方が狂ってるのではないか?という問いかけと私は受け取りました。違うかもしれないけど。
 事前学習なしで「何か」刺激されたい気持ちと、ビールを飲みたい、ということで出かけて行ったので、頓珍漢かもしれませんが、ずっと反芻しながらこれからも化学変化していくと思います。数年後に「はっ!」とすることもあるかもしれないです。
 この世界の多くのほとんどのことは人の意識によって作られていることを思うと、現状地獄を作っているわけですが、ならば意識によって「そうでない」世界を作ることも可能なわけですね。
 サトマキさんが時々「この虚しさに負けない」とトゥートしてますね。そういうことですね。
 ビール美味かったです。
 取り止めがなくてすみません。
 いい時間でした。ありがとうございました。

スナック社会科横浜映画祭#2 特集:飯山由貴 事後アンケートより

会場参加 ねまんねまさん
 「みんな」がいる場所にいてもらっては不都合な存在は巧妙に隠され消されていくんだな。見えているのに巧妙に物語られて見えなくされる。知らない間に本当に消えてしまったものもたくさんあるんだろうな。「みんなの幸せ」のためならと自ら隠れたり消えたりしたものも悲しいぐらい沢山あるに違いない。

 上のツイートは飯山由貴さんの作品のうち統合失調症の妹さんとのやり取りを扱った『あなたの本当の家を探しに行く』『ムーミン一家になって海の観音さまに会いにいく』を観ての感想。
 トークで飯山さんご自身もおっしゃっていたがパレスチナでの虐殺が続く中で妹さんの語りを見返した時、妹さんは戦争が起きればまっさきに自分は殺される側であると何となく感じ取っていてその上での世界の幸せへの願いだったのではないか、って(正確ではない)。わたしも画面の中の妹さんが「妖精はみんなを幸せにする、たから、妖精自身は幸せになれない」というような(これも正確ではない)ことをおっしゃっていて。あぁ、人間の幸せは妖精(妹さん)の幸せをもらって成立するものっていうのは本当にこの世界の現実だなと。妖精の幸せを削って成立する人間の幸せ。
 イスラエルや西欧の「平穏」はパレスチナの人々の土地と暮らしと命を奪った上に成り立っているし、健常者が暮らしやすい世界はそうじゃない人々の暮らしを病院や施設や家庭の中に閉じ込めたからこそ成立している。一番弱い存在が世界の「幸せ」を支えている。それはあってはならない構造的暴力だけど、一番弱い存在がどのように暮らしどのように自らを表現しているかそれをありのままにちゃんと聞けているだろうかと、ちゃんと聞いた上で暴力に反対できているだろうかと、そう考えさせられた。
 いろんな抗議運動に同調しながらうまく参加できてなかったり本当は疲れているのに見ないようにしたままただ録音が壊れた再生機で無理やり再生して何かやっている気になっていなかったかなと。
 一番弱く小さい「妖精」の声を耳を澄ませて聞いてきちんと応答することをしないと、暴力反対のアクションは「妖精」の声を奪って存在を後方に押しやった上での「善きことをなす人の暴力」でしかないのかも、とそんなことをぼんやり思いながら画面を見ていた。
 画面の中では飯山さんたち「人間」が着ぐるみを不器用に着てムーミンになって「妖精」になろうとするさまはとても滑稽で思わず笑ってしまったけど、多分わたしに足りないのはそういうことだなとか。あるいはわたしもADHDだか気分変調症だかの診断はあるけれど、あまりに長く「人間」だと思っていたせいで「人間」という着ぐるみ着ていた自分もそれを装着するさまもとても滑稽だったんだろうなとか。
 『家父長制を食べる』は見たのは2回目でそれは森ビルでの展示で見たもので今回また違う文脈?作品群の中に置かれたらたま違う見え方がした。そこに映っている飯山さんはひとことも言葉を発しない。DVの構造下で親密圏の中で「人間の幸せ」を支えていた「妖精」は言葉がない。トークで飯山さんは妹さんは当事者研究など「当事者が語る」ということを妹さんなりに知っていたとおっしゃってたが、そういう意味では親密圏での暴力の当事者は安全に語る場所も聞き手も不在のまま語る言葉を生み出せない。言葉ではなく食べるという表現は「家父長制への抵抗」という言葉に安易に変換されることもなく「家父長制を食べる」というタイトルにとどまったままのその瞬間を見ている側は手渡される。妖精の言葉を聞くということは語れない妖精の表現をそのままキャッチできるか、ということでもあるのかもしれない。
 本当は「妖精」(非当事者の名付けでは「精神障害者」かな)だからでも「朝鮮人」だからでも「DV被害者」だからでもなくなく同じ「人間」なのだけど、そうやって名付けて他者化しないと見たり聞いたりできない「人間」であることが恥なのか希望なのかわからない。わたしの声は小さくないと思うけど本当の声かは分からない。「着ぐるみ」を着た「人間」なのでそれをちゃんと脱ぐことができたら小さな声でも自分の声を出せるかもしれない。
 日本の植民地支配と家父長制と優生思想の元で隠されて消されてきた人たちの存在を記憶しようとするための「作品」は「今の世界を生きる自分」を否応なく照らし出す。今の世界に生きるわたしは最近は「ただの数になりたくない」と必死に助けを求めるガザの人々の声をSNS上で目にしている。
 国際社会から何十年も話を聞いてもらえず今もまさに無視され続けている人々は切実さから一瞬も逃れることができない。#ガザのみんなを直接助ける というタグを追いながらその先にある確かな存在を感じてわたしひとり分の僅かさであっても今できることをやることがわたしも生きて声を得ることなのかもと思っている。

ねまんねまさんのX投稿より 最終投稿2024/08/29 20:23

 初めて飯山作品を観た方と、過去にも飯山作品に触れた方の感想なのですが、まるで呼応しているかのように、それぞれ自身に重ねながら、また「今このタイミングで、この順番(文脈)で観ること」とその作品たちを真摯に受け止めて紡がれた言葉に触れて、本当にやって良かった…と思いました。
 多分、お二人とも痛みや迷いを感じながら書かれたことと思いますが、それをシェアしてくださることが、いつかどこかの、もしかしたら今この瞬間の誰かの光になることがあると思っています。辿々しくても言葉にしていくことで辿り着ける場所があると信じています。本当にありがとうございました。
 また、ご来場された方の何人かとは直接言葉を交わすことも出来たのですが、ご出演される方だけでなく、ご参加される方の思いも預かることは責任重大だなと改めて気が引き締まりました。
 事後アンケートはまだまだ受け付けておりますので、どうぞ皆さまもお寄せください。「非公開希望だけど飯山さんに伝えて!」も、勿論大歓迎です。また、配布資料の寄稿へのご感想でもそれぞれお伝えしますので!

 また配信アーカイブは8/31(土)23:59まで何回でも視聴可能です(販売は同日22:00まで)。どうぞまたこの週末にでもご視聴いただけましたら。

台風が九州に上陸しています。どうぞ皆さま、ご安全に。

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