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『焦げ付いた夏のミラージュ』

素足で触れた砂浜の熱さを忘れていた。引きずって歩く私の足に積もる砂は、柔らかく気持ちが良い。調子に乗って体重をかけてしまうと、水が染み込んだ場所に行き着いて、その冷たさにすこし驚いてしまう。

履き慣れてないビーチサンダルに浮かれた私のひとりで遊び。側からみた自分を想像すると、自然と口角が上がって笑い声が漏れる。寄せては返すさざ波と吹き抜ける風の音が、口から出た小さな声をさらに小さなものにして世界からかき消していく。つま先を意識し、足をもっと深いところに沈み込ませて砂浜を削る。黒い泥が顔を出して冷たさの正体を暴いたところで、前方から少女の声が聞こえてきた。

「なにしてるんですか? 置いていきますよ?」

見れば、呆れた様子で彼女は口を尖らせている。「ごめん。つい夢中になっちゃってさ」と言いながら、手を合わせて謝罪の意を示す。彼女は私を一瞥した後、「遊ぶならご飯食べた後にしよ」と言った。

私たちは地元のスーパーで買い物をしてきた後だった。時間は午後三時。この時間に夕食の買い物をするなんて。普段の生活では考えられないことだ。彼女の背中を見ながら歩く。彼女は陽に弱い。日中はいつでも傘をさしていて、ビーチにいる時はパラソルの下から出ようとはしない。一度、無理やり日の下に連れ出したことがあったが、数時間もしないうちに彼女の体は焼けるように熱くなりただれて溶け始めた。これはメタファーではなく、彼女は溶けてしまう身体の持ち主だった。様々な要因で彼女は人間の形を保てなくなり溶けてしまう。陽の光は最たるものだ。後日彼女は「きみとはしゃぐのは楽しかったがもうやりたくない」と語った。

「水羽イノリ」と名乗るこの不思議な少女と一緒に私はバカンスを楽しんでいる。彼女から名前を聞いた時、ファンタジックな字面が羨ましかったので、ここでは「藍川スズネ」と名乗ることにした。藍川までは本名で、下のスズネとは昔近所に住んでいた可愛らしい女の子の名前だ。

スズネは今まであった誰よりも女の子でいることが似合う女の子で、どんな服を着てもキラキラと輝いて、ファッション誌に載っていてもおかしくないコーディネイトに見えた。一度だけ背伸びして買ったワンピースがスズネと被ってしまい、恥ずかしくて、トイレの個室でこっそり泣いたことがある。スズネは「双子みたいだね」と優しく声を掛けてくれたが、それは逆に私を傷つけた。私は、スズネのように華奢ではなかった。くびれもなかった。瞳の大きさも鼻筋も肩幅も、その服を身につけるには不相応だった。そして、自覚する。どうやっても叶わない人間がいること、私の理想をいとも簡単に叶えてしまえる他人が存在するということを。身の程を分からせてくれたスズネは私の中で、遠い星のような存在になった。時々見上げてはその距離の果てしなさに浸った。

全てわかっていて、スズネの名を名乗ってしまう自分は痛いと思った。しばらくは嘘をつき通していたが、居たたまれなくなってイノリに真実を打ち明けたら「綺麗な音色だからいいと思うよ。それに好きだったんでしょう、その子のこと」とあっさり肯定されてしまった。

「不可抗力だったかもしれないけど、エスケープしてきたんでしょ。バカンスっていうのは心を裸にする行為だよ。全部脱ぎ捨てなよ。モヤモヤしたって楽しくないでしょう」

自分の人生は我慢の連続だった。それなりに努力してきたつもりだった。不可抗力には寛容という杭を使って感情を押し殺した。そんな暮らしにも慣れたはずだったのに。

ここにいることを許されているのか、許されていないのか、三ヶ月経った今でもわからない。慣れていく身体と抵抗する人生計画が、私の中で果てのない争いを繰り広げる。

寄せては返すさざ波と吹き抜ける風の音。イノリの声はかき消されないで、私の鼓膜に届く。どうしてか、彼女と話すと、心の荒波は落ち着くことが多い気がする。

私より幼くみえるイノリの姿を追いかけながら、今日も砂浜を歩く。



書き途中の作品があって眠らせたままだと勿体ないから、とりあえずあげてみました。続きが読みたいなどの声があればもしかしたら書くかもしれません。(本当か?)

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