取扱説明書

普段は明るく振る舞っている。いつだって声がでかいし大きな声で笑う。他人の悩みにはポジティブな回答をしようと心がけているし、実際そこそこ実現していると思う。しかしながら、私自身はこれ以上なくネガティブな存在である。それを理解してもらいたくて、今この文章を書いている。

私は、首を吊ったことがある。自分の社会性のなさにうんざりして、将来の自分の生きていくビジョンが見えなくて、ギターアンプからシールドをぶっこぬいて、首をかけるに至った。たまたま実家の柱が折れてくれたことで今現在こうして文章なんて高尚なものを書いているが、そうでなければ今頃三途の川の向こう側だったと思う。

自分が首を吊った話は、一部の人間にしかしていない。他人に同情してもらいたくて首を吊ったわけじゃないからだ。ただ自分の存在が苦しくて、消そうと思ったからにすぎないからである。

じゃあ、なぜこんなところで文章を書いているのか、それこそ御涙頂戴の同情煽りじゃないのか、という疑問が浮かぶと思うが、それに対する答えは「自分の存在が、思ったより周りの人間に認識されていない」と感じたからである。

元来私は、「自分らしさ」を持つ人間が一番かっこいいと言い続けてきたし、私もそれを目指していた。しかしながら、私自身のこのネガティブな心や存在認識はあまり周りの人間に認識されていないと感じた。どうやら、私がネガティブをためらいなく表に出した時、それは「自分らしくない」らしいため、認識を改めてもらうきっかけのために書いている。

自己開示、というのは勇気のいることである。実際現在こんな文章を書いていては、兄が私を「万年思春期」と揶揄したのも頷ける。到底22歳の言動とは思えない。しかしながら仕方なかった。私という存在はそういうものであり、諦めるしかなかった。

諦めるしか無い、というのは、私という存在があるから、である。私は無存在を推奨する反出生主義というのにも片足を突っ込んでいる。つい昨日、「出生は加害な気がしてならない」と恋人に発言して激しい価値観の違いを突きつけられたところである。明治時代の文豪のような存在でなければなんの価値にもならない。

死なせてくれ。安らかに。出なければ美味い飯と好きな人たちだけと関わる人生にさせてくれ。

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