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僕は「いい人」

こんばんは、夜寝れない状態です。

最近「死にたくなったら電話して」とかいうやばすぎる小説を読んでしまって、様々な感情がぐちゃぐちゃになっているので、その中から、今日は僕自身についてまとめられたらなと思って書き始めています。

率直に、客観的に見ても、僕は多分、おそらく、基本的に、大体の場合は、「いい人」です。そして他人に「いい人」に分類されがちです。

そして、これってプラスのことなのか?と最近思ってしまっていて、そもそも「いい人」とは何か、なぜ「いい人」なのか、なぜ「いい人」と分類されることが良くないのか、考えてしまっていたのでここで紹介したいなと思います。

まず、何が「いい人」なのかをはっきりさせましょう。

これは僕が言われてきた「いい人」という言葉に対する経験的感覚も大いに含まれますが、

「優しいけど、だからといってそれが人間的魅力に繋がらない人」

という定義がしっくりくるものと思います。できることなら解消したいのは自明ですね。

次に、なぜ「いい人」なのか。

僕は、あまり自分に興味がありません。自己犠牲で自分の好きな他の人のためになれるならば、率先して自己犠牲を行うだろうし、それによって出た自分の損害について、るんるんしながら補修できるタイプです。

また「自分のために」何かをするのが苦手です。自分の利益のことを想像すると遠慮を通り越して気持ち悪い感じがしてしまって、よっぽど嫌いな人でなければ優先順位が僕自身より下になることはないような感じです。

本来、魅力というのは個性に宿るものだと思っています。また、自分のために何かをする時、それは個人の欲求であるし、言ってしまえば「わがまま」の部分なわけだから、人それぞれの個性に直結していると僕は考えます。

僕の場合、ここが欠落しているとも言えますが、もっと正確に言うのであれば、「自分の大好きな人のためになりたい」というワガママは存在しているのに、これが他人ありきなせいで他の人から捉えにくくなっているからだと言えるのでしょう。だから僕は「いい人」なのです。

最後に、なぜ「いい人」だとだめなのか。

ここは完全に「死にたくなったら電話して」の影響を受けてしまっている部分で、ペシミズムじみているところがあるのですが、

「いい人」とは大人の世界に入れば単純に「都合のいい人」です。「都合いい人」は言い換えれば「搾取される人」です。

「他人のためになりたい」という気持ちは、決して非難されるべきものではありません。自分でもこの気持ちを純粋に保ち続けることはとても美しいものであると思っているし、他の人がそう思っている様子を見てもとっても美しく見えると思います。

しかしながら、大人の世界とはそう上手くいかなくて、だから「死にたくなったら電話して」では「死」でしか自分の純潔さを保てないって描かれるんですよ。

世の中では、「他人の優しさ」など「利益」のひとつでしかなくて受けられる無償の愛など、無償だから貰っておけ、という精神でしか受け取られないようです。

これの解決策を僕は知っていました。それは「誇りに思う」ことで、自分のやっていることは無償の愛であり間違っていないのだと胸を張ることで自分の行いを愛たらしめる方法を今まではとってきていました。

しかし、ふと考えるのは、「本当に世の中は他人の優しさを純に受け取れるのか」と考えてしまって、せめて自分はそう受け取れるようにしようとか、大抵の大人には無理だとか様々問題点が浮かぶわけです。僕は誇りに思うことによって自らの行動を愛たらしめる行為に、客観性が足りていないのでは、そんなことをしたってお前の愛(笑)は他人に消費されるだけなのでは、と思うようになってしまいました。

あとは僕が選択するだけなのですが、残すところ僕には「搾取される自覚がありながら搾取される」というただひたすら泣くしかない結末しかないように感じられるのです。これでは「いい人」ではありたくないと思ってしまいます。

「魅力的な人」と「ワガママな人」は紙一重であるし、「優しい人、思いやりのある人」と「搾取される人」は紙一重であるから、どこへ行っても捉え方次第では逃げ場がありません。

みなさんは「優しくて思いやりがあって魅力的な人」になれる方法を知っているでしょうか?

(補足、僕の自己犠牲を「勝手にやった事」と捉えられるのは大いに結構で、これは僕が誇りに思うことでこの自己犠牲は愛たりえるからです。だからこそ「しめしめいい利益」と思われることこそもっとも唾棄すべき悪と考えるわけです。)

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