反出生主義と、退屈

僕の兄は働き出して変わりました。急にパン作りに凝り出したり、休日にバンジージャンプをしに出かけたりと、未経験のものをなんでもやるようになっているようでした。

姉は高い車を買いました。結構な走り屋で、スピードをよく出す。同様に高いMT車を持つ兄に言わせれば、姉は「スピードを出すことで非日常を味わってる」らしいのでした。

自分は大学院を休学し、バイトを始め、怒涛の10連勤の4日目にあたります。学部時代の研究室での経験によって持ち合わせていた「自らは社会でやっていけないのだ。」という自意識は薄れつつあり、「働いて生きていくだけならば、意外に自分でもやっていけるかもしれない。」と、思いつつあります。

休学し、たかがバイトですが、労働を通して自分が将来働くビジョンを身近に感じた時に、僕は兄や姉がどうして今のような社会人になったのかを理解できるような気がしました。

働いて、生きる。僕の理解では、それ自体は圧倒的に「退屈」なのです。

明石家さんまが、「人生生きているだけで丸儲け」なんて言いますが、そんな言葉は生活ができるだけで相対的に幸せな時代にしか通用せず、実際には働いて生活するだけの日々はこれ以上なく退屈で、刺激がない。

僕には、これが原因で兄や姉は高い車を買い、兄は不自然に活動的になり、姉の運転は荒くなったのだと感じられます。それだけじゃない、高校の先輩が城巡りをしていたり、そう感じられる例は身の回りに多くあります。

きっと皆んな、この「退屈」と上手に付き合って生きているのだと、最近はよく感じます。

話は変わりますが、僕が休学する原因ともなるスチューデントアパシーと診断されたその元凶に僕の持つ、厭世主義と反出生主義があります。

簡単にいえば、この厭な世の中では、出生という行為がそもそも加害ではないか、という考えです。

休学してから、初めて親に「自分は反出生主義なのだ」と伝えました。親を傷つけたい気持ちは全くなく、しかしながら親は深く傷ついたのではないかと思います。

それでもなお、親を恨む気持ちはないにせよ、親が自分を産んだことに対しては理解に苦しんでいました。

しかしながら、最近感じるような、働いて生きるという果てしない、途方もない退屈の中では「子供」という存在が、非倫理的な表現ですが、「退屈しのぎ」として有効であることが理解できる気がします。

もちろん、子供のことを「退屈しのぎ」だと思って産むような親はいないと思いますが、

出生というのは、人間という生物が、社会というシステムが、「退屈」というエネルギーを媒介して、ある程度強制しているものなのかなと、半ば諦めのような考えも湧きつつあります。

こう考えるようになってから、親に対する違和感も少し薄れました。親にとっても仕方のないこと、世の中はただ生きるには退屈すぎるのだ、と。

果たして僕自身は、理性でもって出生と交わらずに生きていけるでしょうか?退屈に押しつぶされ、死んだように生きていくのでしょうか?はたまた、退屈のあまり、自らの子供を欲するようになるでしょうか?

以上、近況でした。また、

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