僕の全てを巻き込んで

今日は圧倒的に躁な感じの日でした。ゲームをしたし、ギターの練習をしたし、筋トレをしたし、英語の勉強をしたし、ランニングをした。普通の人であれば、「ああ、今日という日はなんで充実した素晴らしい日なのだ」と考えるところでしょうが、僕にはそういったポジティブな感情が上手に湧いてきません。

ただ、「今日を活動的に動いた」という事実があるだけなような気がします。

何故このような発想になってしまうかといえば、僕が反出生主義であることに起因します。要するに、「生きることを使役されている」と感じているということです。

ざっと、反出生主義的な僕の思想を述べると、出生そのものが生まれる子供にとって受動的なものであるのにも関わらず、出生後というのは、生存権程度の恐ろしく低いクオリティの生活のみが保証されており、さらには、いわゆる生活保護などは世間的に肩身が狭い状態にあるこの現代において、子どもを産むというのは、唾棄すべき加害的な行為であるという思想です。

話は変わりますが、僕は現在名目上うつ病のために、休学をしている立場にあります。担当医によれば、「スチューデントアパシー」と言う状態にあるようで、うつとは異なり、性格面の延長にあるような問題だそうです。さらに担当医が言うには、このことをよくよく会話して向き合うことが大事だそうで、自分は親に「なんで産みやがったんだ」と言わなきゃいけない状態になっています。

親には感謝をしています。親を傷つけたいなんて一つも思わない。しかしながら、僕の「スチューデントアパシー」とやらはどう考えても反出生主義に起因している。向き合いようがない。どう頑張っても人を傷つけるだけで、それなら、自分が腐っていくのを選ぶべきじゃないか、などと考えているところでした。

また話は変わりますが、僕にはお付き合いさせていただいている彼女がいます。彼女とは付き合いがもう二年以上になります。お互いに大学院生で、将来のことも考えなきゃいけないこのタイミングで、僕らには子どもを通して、価値観の相違がありました。彼女は子供が欲しい人で、ここでも僕の反出生主義は僕にとって弊害でしかなかった。現在も話し合いは平行状態のままで、お互いの思想の変化を祈ることしかできない状態にあります。

僕は自分が疫病神のように感じられてなりません。彼女の時間を奪ってしまっているような、どこまでいっても何も生み出せない男であるような気がしてならないのです。きっと、「そんなことはない」といってくれるからこそ、幸せになって欲しいからこそ、僕にはもったいなくて、彼女の人生に僕は害を与えている存在なんじゃないか、そう思えてならないのです。

僕はこのように、反出生主義に囚われて、人間らしさを失って、当たり前が当たり前にできずに、言葉だけを一丁前に並べるような存在なのです。

どうか気をつけて欲しい。考えずに済む話は、考えずに済んだ方が幸せだと僕は思います。今持つ、「自然な人間らしさ(=出生にまつわるポジティブな感情)」を、うまくそのまま飼い慣らすのがいいはずです。そうでなければ、僕のように全てを巻き込んで飲み込まれてしまう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?