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無駄なことしか愛せない

生活が苦しくなると、どうにも救われようとして自己表現に走り、ここに文章を書きにきます。

最近は研究室生活を続けています。かねてより社会性との果てしない戦いを続けている僕ですが、敗戦濃厚、生きるためには、残すところ存在するかすら危うい天国のみが僕の保持する領分と言える状態でしょう。死んだように生きるか生きるために死ぬか。

僕が自分の性質の中で、最近最も足りていないものは「社会性を持った可愛げ」というやつだと感じています。

僕は嘘をつくのが苦手です。思ったことはすぐ顔に出てしまうし、なんなら口に出してしまうまであります。しかし、社会性とはおそらくそういった素直さとは対極にあるもので、円滑にコミュニケーションを図るための我慢や嘘のようなものだと思います。僕にはこれがない、社会性があるフリを試みても目も当てられないほど下手、隠せているはずの不満で表情は歪み、声はおずおずと小さくなる。全く「可愛げがない」。

研究室というのは、社会と大きく異なる点として、「金銭のやりとりが発生しない」というものがあります。

同時に社会と同じように、「先輩と後輩」という関係性は生じており、後輩は先輩を頼らざるを得ない。繰り返しますがそこに、「金銭のやりとりが発生しない」。これが研究室、というコミュニティを複雑化させている原因でもあります。

先輩を頼ること、先輩に時間を割いてもらうこと、というのは、「先輩の善性のみを頼りに自分に利をもたらす行為」となりうるのです。言い換えるならば、「先輩にとって、全く利がないが、断れば悪評に繋がりかねない行為」ということになるわけです。

僕はこのシステムが本当に苦しいです。頼ることが、相手のことを利用している気分になるし、複数回頼っていくうちに頼りにくくなってしまう。ましてや、僕には「可愛げがない」。こいつのためなら、と思わせるような人柄も有していない。しかしながら自分のタスクは先輩を頼らずして達成できない。八方塞がりな状況に陥ります。

どうしたらいいか?という答えは見つかっていません。しかしながら、「社会性を必要としないコミュニケーション」というのは僕の完全に得意分野で、最近はValorantというゲーム上で仲良くなった友達が多くいます。

ゲーム上またさらにネット上での友達、というのは社会性を現実社会ほど必要としません。なぜならお互いがお互いにとって「究極的には不必要」な存在であるからです。

僕はこのような状況においてのコミュニケーションが大好きです。気負わず、気遣いや思いやりも、功利主義的な勘ぐりを通さずに受け取れるし、逆に自分からも発信できる。

僕はこの気負わなさ、というのをきっと求めているのだと思います。サークルの人間にも、valorantの友達にも。タイトルの無駄なことしか愛せない、というのは「有益なことはいつも何かを疑わなくちゃいけないから」ということなのかもしれない。とここまで書いて推敲もせずに投稿する。この勢いが大事かもね、どうみられててもいいよ。

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