生命の美(beau)は、罪なのか?ボーはおそれている、感想など
やっとこさ、アリ・アスター監督の最新作、Beau is afraid (ボーはおそれている)を観てきました。
いつもの通り、ネタバレありなので、見に行く予定がある方は、見てからお越しください。
既に素晴らしい考察や感想がたくさんあがっているので、私があえて書く意味があるとすればなんだろう、というあたりに絞って書こうと思うのですが、、
アリアスター監督の作品は、通底して「罪悪感と義務感」が凄くテーマになっていると思う。
そしてこれらは、ユダヤの世界観=工業的な貨幣経済社会 の負の果実なんだよね。
ユダヤというキーワードがなぜに、表の世界では基本的にタブーとされており、なのに、社会はこの文化なくして成り立たないほど、隅から隅まで、わたしたちがそれとは気づかないところまで含めて、かかわらずに生きることはできない、ありふれたテーマだ、という矛盾に疑問を抱いている人は少なくないと思っている。
日本には、三猿(見ざる、言わざる、聞かざる)という猿が、神社にありがたく飾られていたりするけれどもまさに、わたしたちが理由もよくわからず、潜在的に強く感じて生きている「罪悪感と義務感」を、いかに顕在意識にあげて対峙するか、というのは、人類全体から考えてとても大事な行為だと思う。
そういう意味で、アリアスター監督の作品は、いちばん急所を狙って作品がつくられているかもしれない、と思うのでした。
主人公のボーが、作中での誕生日がおうし座に設定されていてなるほどなーと思ってしまった。ボーは英語でダンディなモテ男、のような意味だったりするし、フランス語ではbeautifulと同義、美を表す。いかにもおうし座的なキーワードであり、その象徴を太陽として持つ主人公が、怖がりという話なのだ。美しい自分、豊かで愛される自分、というものを怖れている、という。
そういう風に書いてしまうと「なんや意気地なしやな」と思われるかもしれないが、彼に次々にふりかかる事件をみていると、そうなるのも無理はない、という気がして、嘲笑もできないし笑い飛ばせもしない。それくらい、不条理な出来事が次々起こる。旧約の「ヨブ記」がベースにある、という話があるくらいで、ヨブ記はユングの独自解釈を思い出すけれども、この不条理によって神から試されることの意味、を問うている映画ともいえる。
それにしても、アリアスター監督のふれこみでは、コメディと言っているが、どうひっくりかえしても喜劇とは思えない。そして、そこまで振り切れてない。
なんどもなんども象徴的に映像で示される「水」によって、ずぶずぶと情にからめとられて溺死(最後は文字通りほんとうにそうなる)という、精神力の弱さが執拗に描かれていて、見る人間に、キツさを与えると同時に、同種療法的な効き目が絶大な仕上がりとなっている、、
この、太陽を生きることへの怖れ、というテーマで全体をみるといろいろ腑に落ちるシンボルがたくさん出てくる。途中で数回、足につながれた鉄の鎖を断ち切って、なんとか運命から逃げようとするシーンがある。
これは、シフォンケーキとシオニズム、のこの考察でも書いたけど、
彼らがこうはならないようにしよう、というキーワードに掲げている「ゴイム」=「ゴム」的な化学的性質の大きな特徴である、「長い鎖につながれて一見自由そうだが、鎖の長さまでが自由の限界で、あるところまでくると、がくんと制限がかかる。しかしその制限がある方が自由を感じる犬」の象徴を思い出した。
映画の中で、鎖が切れるシーンが2回ほどあった。だけど、その動機である。ただただ、恐怖から逃げるために=自分が太陽であろうとすることを怖れているまま鎖を切っても、それはまったく運命を変えることにつながらない。アリ・アスターはそれを執拗に描いている。
自分らしさとはいったいどういう時に感じることができるだろうか?まわりから見た目を褒められたり、社会において成績が良かったり、お金をたくさん稼いだときに感じられるか?違う。
どちらかというと、自分の意志の発露、というもののプロセスをきちんと味わい、それがどんな結末になろうとも、見守ってもらえる、という体験こそが、自分らしさの土台となる。
しかし、いわゆるエリート教育=「標準化」に特化してしつけられる子どもは、この意志が発露すると、ことごとく潰されてしまう。それはほとんど、自分もそうされてきたことの鬱憤晴らし、捌け口としてそうされる、という負の連鎖である。
映画でも、支配的な母親像がこれでもか、と描かれていたが、社会で弱い立場におかれる構造になっている女性は、その鬱憤をこれでもか、と子どもに向ける。アリス・ミラーの書籍でも、修道院でシスターたちが、ルールや神の名をふりかざして子どもを虐待していた、という話がでてくる。そしてそうやって育った子ども達が大人になって、無意識かつ無自覚に、仕返しを弱い人間へ向けるという哀しい連鎖、、、
私も、幼い頃(1歳頃)のアルバムに、泣きすぎてぼろぼろになったところをカメラで撮られ、「自我の芽生え」とペンで脚注が付けられている写真が残っている。ことあるごとにその写真を出してきてケラケラと笑っていたっけ。私の親は、そうやって幼い私を虐めて鬱憤を晴らしていた。
アリ・アスターが描く狂気が、他人事ではなく、似た体験がある人は少なくないと思う。そんなことくらい、と言われてしまうかもしれない。だが、それが自分で自覚できていないレベルで、とても根深い影を落としていたりする。
自分の意志を持つことを怖れる、という感覚がわからない人は幸せなのかもしれない。少しでもその片鱗を見せた瞬間に、半殺しに遭うような体験を、子ども時代に繰り返し繰り返し、反復継続して味わった、という人たちにとって、それは、愚かであっても、反射的にそう心身が動いてしまうのは当然なのだ、、、
「意志」を象徴するのは、火星であり牡羊座的な要素なのだが、アリ・アスター監督の作品では通底して、頭部が損傷したり失われる描写が執拗に繰り返される。ヘレディタリーも、ミッドサマーもそうだったし、今回は母親の死に方(まあ、死んでなかったのだが)。牡羊座は頭部=脳=心や意志であり、その不在を象徴してるということなのだ。
イグノーベル賞というのがあって、標準化世界が求めるような、たとえば電車の乗り換えなんかで最短最安でどういけばいいか、みたいな能力って、脳みそ要らないんですよね、、粘菌の研究であったはず。そんなことも思い起こさせられた。
そして、もうひとつ象徴的なシンボルだったのが「小舟」。13日の金曜日でもおなじみの、あの小舟である。Peter Doigのこの絵なんかも、同じ世界観だ。
小舟というシンボルは、基本的に自分で意志をもって漕がないとすすまない象徴だ。映画ではオールはみあたらず、モーターがついた小舟だった(しかもそれが途中で故障したり炎上する)のもいかにも、という感じなのだけれども、ボーはやはり、ことごとくスポイルされ、自分の意志というものが発動できない。だから、最後小舟はボーを乗せたまま水に沈んでしまう。
アリ・アスターは、この物語をユダヤ人にとってのロード・オブ・ザ・リングだと言っているが、棄てねばならない指輪、に該当するのは、月の情念だろうか?そして、ボーは棄てるのに成功していない。
ボーのキャラクターは、標準化の世界でエリートとなった人々、エリートになろうとする人々全てが、潜在的に抱えている内的な自分そのものだと思う。
標準化の世界で勝ち抜くための戦略は、自分らしさを殺し、集団に帰依する技術であり、それに長けていくほど、自分というものが空っぽになり、自信が消え、虚勢を張るばかりになってしまうのだ。
いわゆる「自我の芽生え」というものは、幼児のイヤイヤ期と、思春期と、2段階において成熟していくとされる。
しかし、工業的な経済社会は、成熟した人間を疎む。システムに依存してくれる方が、扱いやすいし、搾取しやすいし、煽られて消費してくれるからだ。
エリート的な象徴=ユダヤ といってもいいと思うのだけれど、彼らは、そのある種あくどくずる賢い知能(そして、彼らは尋常でない努力や犠牲を、幼い頃からそれなりにはらってきている)によって、果実を手に入れる秀才たちである。しかし、その技術に長ければ長けるほど、生きているということへの虚無に苛まれる。その最たる象徴が、性愛なのだ。
映画の中では、父親は種の係を終えた瞬間に死んだという設定になっている。そしてさらに、ボーがやっと最愛の女性と結ばれ、絶頂を迎えると、なんとその瞬間に彼女が死んでしまい、母親が登場する、という絶望でしかない光景が描かれている。
成熟した人間の世界では、そこから人間関係の深まりやはぐくみがやっとスタートしていくはずなのに、そこから先の世界が、まさに、タブーであるかのように、触れることができないままになっている。
これは、経済ルールがいかに、愛や生命世界のルールと反比例するか、の象徴だ。
どこかでボーが、この狂った母親的な存在に「ふざけんな!」という意志をみせることができていたら、この物語は180度変わっていたと思う。そう描かなかったのはわざとなのか、それとも、描けなかったのか。
わたしたちは、エリートでなくても、日々の選択で常に、経済優先の保守的な発想にとらわれて、自分の生命力を殺している。この映画は、その保守的な生き方に対して、いいのかそれで?という鋭い問いなのではないだろうか。
ワンワールド的なものとの戦いの本質は、私たちひとりひとりの内的世界における、太陽と月の葛藤と相似形だ。そのことをあらためて再確認するきっかけになって、いい映画だと思った。
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