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語源で解く八咫烏

3月中旬に、方位取りを兼ねて紀伊半島をぐるっと一周し、大阪京都経由で戻ってきました。

前から訪れてみたかった本宮大社にもお邪魔したので、それにまつわる語源ネタ、を実験的にメモしておきたいと思います。

神様や占いの世界で頻繁に登場する動物たちは、基本的にすべて、動物そのものの意味として、というより、メタファであるとわたしは捉える派です。

十二支(干支)は植物の成長過程の比喩である、というのは有名な話ですが、この八咫烏も、なんでカラスやねん、というのが長年ひっかかっておりました。
日本語でも他国の言葉でも通じる言葉(つまり音が共通している)というのは結構あるのですが、この「カラス」という音もまさに、ギリシア語と通じていたりします。
有名な歌手にマリア・カラスさんがいらっしゃいますが、じゃあこの「カラス」は、烏なんだろうか?

ここでわたしの必殺アイテムであるwiktionary先生にお尋ねしたところ、どうやら、callaという言葉が源であり、これはほぼほぼ「結界」をあらわしているようです。
どういうことかというと、
通路や廊下、あるいは、日本語でも聴き馴染みのある「カラン」という言葉も同じ源になるのですが、カランって、水道の蛇口のことですよね?それから、水車やダムのために川をせきとめる「堰 (ぜき)」、あるいは、家を支える部材のひとつである梁や丸太、扉、それから、形容詞的には「硬い」「厚い」、植物の硬い樹皮や肉厚部、という意味も含まれてきます。

空海は日本全国の治水をしたということで有名ですが、治水というのは政治的にもスピリチュアル的にもとても重要な技術で、それはまさに、自然と対峙して、人が暮らしやすいように水の流れ、気の流れの交通整理を行う係だから。

この話を踏まえると、八咫烏が、交通案内人であった、という意味と重なってきますよね?
あるいは、八咫烏は「勝つ」神様とも言われていますが、その由来はまさに、曖昧模糊とした世界に、しっかりと水路を整えて、流れを制御する側に立つ、というところにあるとわたしは感じました。

今でこそ、京都の町に流れている鴨川、まっすぐおだやかに流れており、町は整然と碁盤の目になっていて(わたしは行くたびに南北逆走しますが、、)ありがたいですが、それもこれも、この水の支配(コントロール)の賜物ということ。

そういえば、わたしの友人で、火と水両方の要素がとても強い子がいました。しかし彼女自身は、自分の水の要素をとても敵対視していました。火の要素だけだったらわたしは幸せなのに、と。
その彼女の結婚前の苗字がまさに、「堰」。この名前が大嫌いで、結婚してその後離婚しても、この名前に戻らない手続きをしたくらい、彼女は自分自身の水を扱う、というテーマを受け止められなかった。
しかし、彼女はとても体調を崩したときに、この本宮大社を訪れ、湿度が高く、水路の神のような八咫烏に助けられ、戻ってからとても元気になったということでした。

この「結界」「なにかとなにかの境目、境界」といえば、榊の話にも通じてくる。

なぜ、神棚に榊がありがたく用いられるのか?

アロマ好きなわたしの体感からは、とくにいい匂いもしないし、お茶にして美味しくいただくこともないこの葉っぱのどこがありがたいのか、正直理解できないで長年悶々としていた。

しかし、最近たまたまみつけてとてもはまった、渡辺一夫先生の植物の本から、椿や榊の仲間(榊は分類上椿と同じ扱い)の葉っぱは、肉厚で、その表面がまるで蝋でコーティングされたようになっており、この性質から、海沿いの植物が育ちにくいエリアでも結構強く生きることができる、と言われていることを知り、目から鱗だった。
蝋でコーティングされていると潮風に吹き晒されても、水分が蒸発しなくて守られる。
同様に、ビャクシンも海辺で珍しく生き延びるタイプの木で、同様に神聖視されている。ビャクシンは椿や榊よりも、自然のパワーがとても強く、どっちかというとこちらが自然信仰派のわたしとしては意味のある樹木だと思う。
榊や椿は、人工的な世界におけるある種の大事な象徴として重用されているのでは?
入学式や卒業式に参列するときに、洋服の場合は「カメリア」を胸元につけたりしますが、これも椿。シャネルのカメリア模様も、椿、、、

海沿いもまさに、水と陸の境目。榊は、音に戻すと「サカキ」であり、「境目の木」というニュアンスも含んでいるようだ。そして、確かお供えする榊の種類で、表と裏の葉の色が異なる(裏が白い)やつが良い、とされることもあるようで、これはおそらく、表と裏、ハレとケ、善と悪、を儀式的人為的にしっかりルール付けして「分ける」機能の象徴なのだろうな、と。

スピリチュアルの鉄板ルールとして「さばいてはいけません(ジャッジはNG)」ってのがあるけれども、人工的な価値観ベースの社会では、裁く=必要な場面で交通整理をする、が必須。だけどどうしてもそれは、生きている存在にとってストレスになる。

自然の世界の秩序は、ジャッジとは違う秩序で成り立っている。自然が強い場所に訪れるたびに、わたしは土地から学ぶ。
東京に暮らしてもう6年目になってしまい、こののっぺりとなまぬるい世界がどうしても好きになれないけれども、たぶんわたしはこの、人工神と、自然神の違いをしっかり学ぶために、ここにいる。

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