「手」からの自由
錬金術やオカルトのシンボルに、手のマークがよく示されている。これは、人間が、その手によって、なにかしらいらんことしいをする、ということの象徴だとわたしは思う。
自然が持っている普遍的な法則に従っていたらつまらないから、それを歪めて、自分たちの好き勝手をし、それで世界を征服してやれ、という象徴が、手のサイン、なのかもしれない。
手といえば、イジィ・トルンカのショートフィルムがある。
チェコ・チェコランドさんのこの記事にも詳しいエピソードがあるが
https://ameblo.jp/a-a-agallery/entry-12183900580.html
手、というものに頑なにNOをいい、ただ、花を育てることで対抗する、というこのアニメは、若い頃とても衝撃的だった。
私の人生を大きく変えたのは、とても抑圧感覚に苛まれていた若い頃に、扇町ミュージアムスクエアの小さな映画館に連日通って観た、チェコアニメだといっても過言ではないのだが、昨今の社会情勢を見るに、世界中がチェコに暮らす人々のような気持ちで生きているように、わたしは思えて仕方ないのだ。
手というシンボルは、思いやりや、仲間といったキーワードとも親和性が高い。群れる時は、手をつなぐ。人を助けるときも、手が用いられる。
だが、それは互いに縛りあう結界でもあるわけだ。
集団とまったく距離を取って生きることができないわたしたちは、どうせならその中で、なるべく楽をして、どっちかというと、群れに甘えて、責任をなすりつけて生きる側になりたいな、と想いがちだ。そのために、巷の占いが存在し、いかに群れを前提にした社会システムに便乗して生き抜くか、ということを読み解く。
だが、そこで守られれば守られるほど、人は自分に自信がなくなり、生きていることに虚無感や離脱感を感じるようになる。生きているエネルギーが萎えていく。
だから、いくらけものみちであったとしても、時に人は、手による保護にNOを言って、自分で歩かなければならない。
そういう道を歩み始めた人にだけ開ける世界があって、それは「まぐれ」や「博打」によるたまたまなラッキーではなく、きちんと紡がれた物語があるはず。むしろ、こちらの方がただしく因果関係がある世界なのだ、とわたしは思う。
このあたりのことを、ミヒャエル・エンデがわかりやすく対話しているのをみつけた。闇の考古学、の一節。
(昔は、仏陀やモーセのように預言者や偉大な哲学者がいて、その言葉に多くの人が師事する、ということがよくあったが、これからはもうそういうことはないのではないか?という問いに対して)
現在では問題はちがったふうになるでしょう。ひとりの人間が気づいた意味のつながりから、その人間に能力が芽生えるでしょう。そしてそういう能力だけが問題なのです。つまり、これは一例にすぎませんが、いまひとりの人物がいて、その人が北スコットランドの北スコットランド海岸の高地の畑を耕すとします。どう考えても常識ではまったく不毛の土地なのに、その畑では冬にバラが咲き、四〇ポンドのキャベツが取れるのです。まさにフィンドホーンの場合がそうだったのです。
すると、みんなが注目して、「どのようにしたのか?」と質問します。そして私も、その人の知っていることに興味をもちます。(P129-130)
この後エンデは、クラウディウスの詩「月は昇りぬ」を引き合いに出し、これこそがまさに、真実の現れ方だよね、みたいな話をしている。月は昇りぬ、については、以下のサイト解説がわかりやすいのでリンクをお借りした。(シューベルトの死と乙女の詩もクラウディウスなのか!)
https://ameblo.jp/pastabrightness/entry-11875749548.html
たとえば「月は昇りぬ」という詩ですが、それを詩の内容にそって、つまり思想として語られていることだけで調べるなら、そこにはほんとうにありきたりのことしか書かれていない。ほんとうにほとんどなにもないのです。この詩がもっている謎めいた魔力は、そこに表現されている思想ではありません。とはいえ思想も魅力の一部にはなっています。とても単純に思える思想が、その言葉の音楽とつながり、そして独特な順序で登場するイメージとつながって、いささか引きのばされすぎた最終行に達するわけですが、そのあいだにリズムが生じ、思想が魔法のように輝きをおびて、突然、別のものに変身するからです。それが芸術なのです。そういうふうに変身させるのがポエジーなのです。(P131-132)
誰にも、その人固有の、詩的な世界というのがあると思う。
そこにつながっていくことだけが、すべてを癒すと思う。
Photo by Todd Rhines on Unsplash
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