見出し画像

かたちへの敬意

メディカル・アストロロジーへの関心から、サインの持つ象意、それと心身との連携を追ううちに迷宮入りしてもう4年以上たつ。

私の場合、ただ机上の空論としての技術を追ってきたわけではなく、自身の体験を乗り越えるために手探りで進んできたときに何をしてきたか、で気づいたこともたくさんある。

このあたりのことを踏まえて、いろいろまとめている最中です。

無邪気に占いをやってたまだ30代前半の頃も、東洋と西洋の占いには必ず通底するものがあるはずで、それを見極めたいとずっと思っていたけれど、今もその無謀な想いをひきずったまま、あれこれ手を出している。

ってなわけで、今目下の関心ごとは、西洋医学である解剖生理学の知識を使いながら、オカルト的、ホリスティック医学を読み解くことです。

そういうことなので、前から養老孟司先生のことは好きだったのだけど、解剖生理学をずっとなりわいにされてきた彼の発想というものにますます親しみを覚えてしまう。

昨日はお洒落でうすっぺらい本しか並んでない某本屋で、奇跡的にヒトの壁が売ってあるのをみつけて、購入して帰ってきた。ゆっくり何度も読み返したい本です。

養老先生は確か、太陽蠍、月みずがめで、まさにそのまんま、な人生をおくってらっしゃる。
このヒトの壁は、彼がなぜそんな生き方を選んだのか、そしていつも何を感じて、何を大事にして生きてきたのか、がちらっちらっと、時々ずぼっと深い深いマリアナ海溝みたいなのが仕込んであって、「おおっ。。。」となってしまう。

この、なにもかもあっけらかんと白日の下に晒さない、さそり座さんの語り口は、物凄く説得力がある。

そういうことなので、そのおおっ、となったところを少しシェアしておきたい。養老先生が2020年6月に心筋梗塞で入院されたときのエピソード。

病院から出るには二つ出口がある。一つは一方通行で、他界へと抜ける。もう一方は娑婆に戻る。現在の病院では後者の機能が大きくなっている。そうでない方はホスピスなどと呼ばれる。

昔から病院はこの二つの出口を持っていた。だからお寺や教会に付属していたのであろう。近代医療は寺や教会の機能をまったく果たさなくなった。その代わり患者の状況を徹底的に物理化学的に精査する。それで時間を潰す。

本書の最初に述べたように、微細な科学的データなら無限に採れるので、科学的に状況を知るという名目で、徹底的に「検査」し、死までの時間を埋めるのであろう。最近はムダな検査、ムダな治療をやめようと言われることが多いが、この論理はそのままムダな人生はやめようにつながりかねないので、世間的な力はあまり持たないと思う。

とにかく、私が出たのは娑婆の出口の方であった。

養老孟司 ヒトの壁(新潮新書 P108-109)より

養老先生は、立場がありながらも、力に取り憑かれないように生きていこうとしているタイプのひとりだと思う。コロナ禍の後半に出されたこの本は、言葉を選んでいろいろなことが書かれている。

なぜこの箇所を選んで書いたかというと、世の中で、特に、昨今自然派の人々が、西洋医学をやたら糾弾したがる風潮にある中、ひねくれものの私は、そのメリットや、必要悪である部分をどうしても擁護したくなってしまうからだ。

マーヤーという幻想をどこまで否定するか、というのはなかなか難しい問題であって、このことは、ほんとうに幻想から醒めたらもう生きてる理由がなくなるって話でもあるのと似ている。

そういうことなので、なんでもかんでも症状が消えて長生きできればいいとはあまり思わない。空っぽになって奴隷のように生きるために生きながらえるのはいやだなあ、と思ってしまうのはわたしだけだろうか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?