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りんごを解けば
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迷い込んだ先は・・・
「とりあえず、ここに来て」
とメモを渡されてから、もう3ヶ月はたっている。書かれている店の名前で検索をしてもまったく情報がない。ほんとうに存在するのだろうか。信用できないな、と思いながらも、なぜか足は迷いなく、そちらへ向かおうとしている。メモだけを手掛かりに、書いてある駅で降りた。埃っぽさと、生臭くすえたような臭いが満ちているのはよくあるにぎやかな街の風景。のびきったゴムのような、暑くてすべてのやる気を失うような日差しに照らされながら、とりあえず僕は店を目指して歩き始めた。やる気がないのは日差しのせいだけじゃない。
どこにでもある忙しさに追い立てられて、自分を見失ってよれよれになっていただけのことだ。だけど、こんなに参ってしまうなんて、自分に呆れるしかなかった。みんな平気なのに、なんで自分は持ちこたえられなかったのか。平気なつもりだったのに、ある日ぽっきりと、まるでブレーカーが落ちたみたいに、どのスイッチを入れてもうんともすんとも言わず、自分で自分に呆れて途方にくれたのが春のことだった。いつもあたりまえのようにやれていたことが何もできない。起きられない。毎日毎日理由がわからないが涙が止まらなかった。そして繰り返し同じ夢を見た。夢になぜかでてきていたのは、小学生の頃、夏休みの自由研究でつくった、紙粘土細工だ。
僕はあの頃、ティーカップでできた家の中に、くまと一緒に住みたかった。なのでその風景を紙粘土でつくった。家にあって気に入っていたティーカップの中に、うずまき模様のクッションとソファがあって、くまと一緒にコーヒーを飲んでいる、そんな世界をテーマにしていたっけ。そんなことはもうすっかり忘れていたのになぜか繰り返し、このくまの世界が夢にでてくるようになった。くまの出してくれたコーヒーは、とても美味しそうなのだ。とっても、香ばしく深みがある。場所代のためにだけ存在するような、ただ苦いだけでちっとも美味しくないコーヒーとは全く違う、ちゃんと淹れたものだけの、香り。さあ飲もう、と思ったところでいつも目が覚めるのだ。そこでとっても絶望感に襲われた感じで、僕はのろのろと起きて支度をする。身支度をして、駅のホームまで行く。だけど、電車に、乗れない。体が固まって、頭が真っ白になって、乗れないのだ。それで数時間駅のベンチに座って、あきらめて帰宅する。彼女が僕に声をかけてくれたのは、そんなことを繰り返していた頃だ。
いつ買ったのか覚えてないくらい前の、無難な色の綿パンに、なんの変哲もない白いシャツ。かばんはナイロンの大きめのリュック。満員電車で前に抱えても安定しやすいサイズなのが気に入っている。休みの日なのに、平日と変わらない、景色にきれいにとけこんでしまうこの格好がお気に入りで、同じものをいくつも揃えてずっと着続けている。自分の気配を消すのが、いつからか得意になった。気配を消したまま、夕方の光の中でくっきりと主張をはじめた、ファストファッションや大型電器店の冷たく明るいLEDの照明に照らされながら歩く。いろんな色があってカラフルで美しいはずの光が、すべてのっぺりとして全部同じにしか感じられない。そしてそこにきれいに溶け込めているいつもの自分。
踏切の音が遠くに聞こえるのを感じながら、角を曲がると突然、神社でもないのに、樹齢を重ねすぎた木々がすました顔をしてみっちりと生えているエリアに迷い込んだ。あれ、こんなところ、あったっけ?もう何年もこの駅を通勤に使っているはずなのに、知らなかった。みっちりと木々が生い茂る一角は、その深さを裏付けるように、ひぐらしが鳴いているのには驚いた。かと思えば、その脇の道には、都会にしかないような、外資系チェーンのコーヒーショップがあったり、する。
さらに歩き続けると、石垣とタイルが織り交ぜられた、中近東の街にありそうな、少し乾いた印象の壁が続く一角にさしかかった。相変わらず背後からは、冷たく無機質なLEDの光がぼんやりと後光のように差しつつ、薬屋だか電気屋のテーマソングのようなものが遠くで繰り返し響いている中、乾いた石とタイルの壁がずらっと続いていく風景は、いつの時代なのかわからなくなって軽くめまいを覚えた。歴史の浅い、否、歴史がない街では、プラスチックやコンクリートで模造した石風味の偽物によって、かたちだけ同じように演出されるのが常だけれど、ここにあるのはどうやら本物のなにかのようだ。けれど、どこぞの城壁のような大きな石ではなく、もう少し小さくて軽やかさがあり、まるっこい形を生かして整然と、隙間がないようにきれいに積まれている。その石積みの中に、積んだ人の丁寧な仕事ぶりが伝わってくるのだ。この、どこか軽やかな石の間に、尾道のタイル小路を思わせるような、ひとつひとつ手で描かれたタイルやシーグラスのようなものが、丁寧に壁に埋め込まれている。一見無秩序なのに、どこか整然としてなにかが貫かれているような空間。美術館というより、誰かが想いを込めてつくった手製本のような。そういえば、とある寺院には、珪藻土の仲間が使われているものがあるらしい。聖なる空間が水晶と同じ、ケイ素で作られているなら、それはとても気持ちが良いだろうな、と思ったけれど、もしかしてこの石たちもその仲間かもしれない。だってよくある石をたくさん使った空間にありがちな、死にそうなくらい鬱々として重く、磁力と重力が強い空間とここは、かなり違うのだ。見た目には、普通の街かもしれない。けれど、空間がどこかなにか反転してしまっている。
壁沿いに歩きながら、一見地味だけれどもひとつひとつかなり個性豊かなタイルやガラスなどを丁寧にみていくうちに、見覚えがある模様をみつけた。独特の深みのある青で描かれた、素朴だけど特徴的なブルーオニオン柄。家で使っていたコーヒーカップやお皿がこの柄だったから、くまの家の柄にしたのを覚えている。懐かしくなって思わず僕はタイルに手を触れた。するとそこには、予想していた冷たいタイルの感触ではなく、やわらかくしっとりした生きた植物の感触があって、ぎょっとして手を離してしまった。しかしもう遅かった。どうやら触れたとたん、植物に戻ってしまったようだ。触れたことが引き金になったようで、さっき歩いてきた壁沿いにあったタイルに描かれていた花や実や蔦などの模様が全部、模様から植物にすごい勢いで戻り始めている。藍のタイル花は、まるで蛇のようにうねりながら広がっていき、生命力をほとばしらせながら、まるで卵の殻が破れるように、中から藍色のしっとりした、模様そのままの花と葉と茎が外にめりめりっと突き出して広がり、四方八方にまきつくなにかをもとめてどんどん伸びている。ガラスだと思っていたものは、雫や露となって花や葉を潤している。「!?」と思うまもなく、さっきまで乾いた印象だった道が、あっというまに息が詰まりそうな濃い空間に変わってしまった。
道の両側に生い茂るように触手を伸ばしてくる葉っぱや花をかきわけながら進むと、その先に人の気配がする空間にたどり着いた。植物で建物のかたちはよくわからないが、窓はみえる。だが、入り口が見当たらない。まわりをぐるりと一周してみたのに、ない。途方にくれた僕は、窓から中を覗き込んでみると、驚いて息がとまりそうになった。なんとそこには、僕が幼い頃つくった、あの紙粘土細工の世界がそのまま繰り広げられていた。粘土のくまは、あの作品の通り女の子と一緒にコーヒーを入れているではないか!悪い夢でも見ているのだろうか。
ふとあのとき、どんな気持ちでコーヒーカップをつくっていたのかという感覚が、ありありと蘇ってきた。ほっこりした空間をフィクションで作りたくなるような子どもは往々にして、日常にそんな空間がないから生み出すわけだ。あの頃の、まわりにたくさん人がいて、にこやかな空間なのに、息が詰まりそうなくらい居場所がない感覚を思い出した。くまの世界だけは、僕がそこに入っても、さっぱりとしていて、でもあたたかく迎え入れてくれた。僕はいつも、マスターのくまに悩みを打ち明け、解決してきた気がする。くまが、いつものように、砂時計のようにひょうたんのようなかたちのフラスコを用意して、お水とアルコールランプと、コーヒーの粉を慣れた手付きでセットして、ぽこぽこ沸き立つ間、忙しそうに洗い物をしたり、サラダのレタスをちぎったり、ドレッシングを手でシャカシャカふって作っていたりしていた。サイフォンは沸き立つのにとても時間がかかる。不思議なことに、湧いたお湯は、重力に逆らって上に吸い上げられていく。そして、火を止めると、ゆっくりと下に降りてくる。何度見ても飽きないし、とっても不思議だ。くまはいつも、はじめてサイフォンでコーヒーができたときのように、嬉しそうに目をキラキラさせながら、フラスコからコーヒーカップに、丁寧に注いでくれる。そこには別に、甘い言葉もなければ、僕の機嫌をとってくるようなにこやかな笑顔があるわけでもない。そもそもくまは熊なので、表情は少しわかりにくいのだ。けれど無言の、なんともいえない心地よい空間が、あった。
いつからだろう、あのくまの場所を僕は訪れなくなった。そして、コーヒーカップの作品は埃をかぶったまま、棚にしまわれている。
くまとの温かい日々の記憶を思い出し、くまがいつもしていた、サイフォンからコーヒーを注ぐ仕草が懐かしくて、ふと、同じ動きを真似してみた。真似してみると、くまがいかに優しい気持ちで動いていたかがよくわかった。何も考えなければ、もっと乱雑でカクカクした動きになっていただろう。やってみるとよくわかった。くまの気持ちのまま、動きが再現できたなあ、と思った瞬間、突然、まわりの風景がぐにゃりと歪んで、気づくと僕はミニチュアのあの部屋の中に入れていた。目の前には、動くほんもののくまと、あのメモを渡してくれた黄色いワンピースの女性が、びっくりしたようにこちらを見ている。マンガだったらこういうとき、もっと派手派手しく光り輝くまばゆいなにかが起こって、みたいに描かれるのかもしれないが、僕の場合はいたって地味に空間を切り替えてしまったようだ。地続き感覚のまま淡々と、いつもと違う世界線にひっぱられていっている感覚。いったいどうなっているんだ?
「あなた、どうやってここに入れたのよ?」
僕にメモを渡してくれたあのひとが言った。忘れもしない、あのときと同じ黄色いワンピース。アメリカナイズされる前の頃のインド人のような、センター分けで編んである三つ編みはびっくりするくらい黒々と長い。そしてやっぱり、年齢がよくわからない。年齢だけでなく、いろいろと謎すぎる。
「いやその、メモをみて…」
「ここへの入り方なんて教えてないわよ。あなた何者なの?」
まいったな、僕はただ偶然くまのことを考えていたらここにいたんだけど、どう説明したらいいのか。言葉を探して戸惑っていると、彼女は唐突に僕の両手をとった。どこか懐かしく、強烈に何かを思い出させるような感触。
「あなたも目をつぶって」
言われるまま目をつぶると、何もみえないはずなのに、世界の色彩が一気に調整されるのがわかった。彼女の手を通して、まるで画像編集ソフトで彩度や明度をスライドさせるみたいに、グラデーションでなにかが調整されている。いや、半分は僕が調整しているのかもしれない。このなんともいえない感覚、そうだ。大好きな曲に耳をそばだてて、聴き取って再現しようとしているとき、聴こえているのに、なんのコードなのかわからず、手探りで音を探しているうちに、ぴったり探し当てる感覚にそっくりだ。うまくいえないけど、僕はパズルのピースがはまったように、忘れていた感覚を取り戻した。
「おかえりなさい、私はライラ。覚えていないでしょう」
「覚えてますよ、こないだ駅のホームで座り込んでいたら、メモをくれたでしょう?」
「…どうやら、覚えていないようね…まあいいわ」
ライラは、ほとんど聴こえないような高い周波数で笑い転げた。やっと落ち着いて部屋の中を見回してみると、思っていたよりもとても広い空間になっている。しかも奇妙なのは、部屋が、まあるい。どうやら土でできていて、壁と、ソファと、暖炉と、机の境目がなくて、すべてがつながっている。
「アズマ君、駅であなたをみかけたとき、あんなに色がなくなってしまって、放っておけなかったから声をかけてしまったけれど、どうやら橋がかかってしまったようね…」
ライラはまた、何かを見通しているような物言いをする。そんなにもったいぶらないで、全てを教えてくれたらいいのに。困惑した気持ちでみつめかえすと、ライラは続けた。
「あなたにわたしたメモには、こっちの入り口は教えていなかったはずなのに、どうして?ここにこれてしまったことに自覚がないなら、このまま戻ると大変よ。せめて自分で理解して調整できるようになってから帰らないとだめね」
「何が言いたいのかよくわからないな。とりあえず、ここに来て、なんだかとても世界が生き生きと感じられるようになったのはわかった。だけどそれがどうしたって言うんだ?僕は忙しいんだよ、会社をこれ以上休めない、戻らないといけないんだから!」
少し強い剣幕で、ライラにというより、ほとんど自分に対しての憤りを吐き出すように声を荒げたことに少し後悔をした次の瞬間、なんと、今言葉にした音たちがそのまま、光る文字になって空中を舞い、次々と数字に変換され、キラキラ光りながらめまぐるしく計算が始まり、それは永遠に続くように思えた。
「…これ、何?」
「呼び出してしまったようね」
ライラはそういうと、蜘蛛の糸で編まれたような透明で精巧なレース編みのようななにかをさっとひろげた。すると、光りながら飛び回っている数字たちがみんな、すっと引き寄せられてバラバラと積み重なってしまった。目を閉じたライラが何かを念じると、デジタル数字の折れ目のひとつひとつが順番にほどけて、折れる前のまっすぐな竹ひごみたいな棒にみんな戻っていった。9も、3も、4も、全部。かと思うと、竹ひごたちは手を取り合うとゆるやかにしなって、ひとつの円になり、「0」をあらわすような大きな円になったかと思うと、ぱっと燃え上がり、灰になった。
数と力
「今の…何?」
「数の世界から天然の世界に還ってもらったのよ。ここではそれが可能なの。ここに入れてしまったということは、数の世界を可逆的に扱えてしまえるということ。だけど、そのことを最後まで理解しないまま、もとの世界に戻ると、身の危険があるわ…」
「大げさですね」
僕は笑い飛ばそうとした。けれど、笑顔をつくる筋肉のどこかが固まってしまって、笑顔のひとつ手前のところで固まってしまってすすまない。よく「明るい前向きな気もちになるために、まずは先に笑顔をつくりましょう。そうすればかたちに影響された心が、ほんとうに楽しくなってきて前向きになりますよ」と言われるけれど、もはや僕は笑顔を、かたちから先に作れなくなってしまったのかもしれない。
「ほらね。もう、アズマ君は表面的に生きることができない体になってる。そうなってしまった人の歩む道は、厳しいけれど、すべてを理解することを目指すしかないのよ」
そういうと、ライラは、どこからかたくさんの木の枝と、マッチ棒を持ってテーブルの上にじゃらじゃらと広げ、並べてたくさんのアラビア数字のようなものを作り始めた。
「ああそれ、僕も子どものときつくったことあるな。電卓の画面みたいだよね。マッチ棒を8のかたちに並べれば、減らすだけで1から9までの数字が描けるよね。」
「そうね。だけど、わたしが今並べているのは少しかたちが違うのよ、よく見て。」
ライラが並べているものは、たしかに見慣れた電卓の画面のものとも、手書きで曲線を伴って描くときのものとも、ちょっと違っている。
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「これ、カクカクしているでしょう?よく見ると、折れ目の数が、その数字の数をあらわしているの。だから見慣れているものと少し違うのよ」
「なるほど。3,6,8,9を見るとカクカクしていて不自然に感じるけれど、ほんとうはこういうことだったのか。」
「そうよ。それに対して、ゼロだけは、カクカクで描かず、楕円のかたちなの。これが何を意味するかわかる?」
「さっき、両手をつないだときに感じた感覚を覚えている?」
ライラに言われて、少しどきりとした。どこか無防備な、感じたことのない不安定な感覚と、どこか信頼ができるあたたかい大きなエネルギーが入り混じった、今まで味わったことのないような感覚だったからだ。
「あれが、ゼロの世界の感覚。アズマ君からわたしに、わたしからアズマ君に、どちらからも流れていた瞬間なんだ。だけど、力の世界はこれとは違って、一方通行なのよ。わたしからアズマ君にエネルギーを勝手に押し付ける状態。その感覚のほうがたぶん、いつもの慣れた感覚で、不安はないかもしれない。でも、それは力の世界のエネルギーで、人を癒やすことはできない。社会には力が蔓延していて、力は必ず、一方通行。その象徴が、あの折れた数字。この折り曲げる力は、物質のある世界でとても重要なものなんだ。だけど、これは、愛ではない。人は力に助けられすぎると、病んでしまう。」
「ふーん。力がたくさんあったら、その力で弱い人を守ってあげたり、助けてあげたりできるじゃない。それも愛じゃないの?」
ライラは優しいけれど、少し悲しそうな瞳で、僕をみつめた。
「とにかく、今のままで元気になったからって、もとの世界に戻るとどうなるか目に見えているわ。」
ライラはそういうと、さっき机に数字のかたちにならべていたマッチ棒を1つ手にとって、慣れた手付きでシュッと擦った。すると、ゆらめく炎の中に、ゆっくりと景色が幻灯機のように浮かび上がり始めた。
オーバル
「マッチ売りの少女かよ」
マッチの炎がきっかけで浮かび上がった、球体状の幻灯機の光は、マッチだったらとっくに消えるくらい時間がたっても、全く消える様子がなかった。
「あのお話は、幸せの片側しか知ろうとしないことの愚かさ、でもあるとわたしは思うのよ」
また、ライラはよくわからないことを言い始めた。
「とにかく、ここではすべて元に戻ってしまうの。あなたはその源を理解して戻っていかなきゃいけない。さあ、順番に見せていくわ」
マッチの炎のような光る丸い空間の中には、立体的に風景がたちあがって、まるでそこに小さな世界があるように見える。最近流行りのデジタルな立体世界をみつめたときに感じる冷たさはまったくなく、そこにいるはずがないのに、ほんとうにそこにいるようなあたたかで有機的な感覚が呼び覚まされてくる。そう、香りや風までも伝わってくる。いつまでもこの風景をみていたくなるような。これはいったいどうなっているんだろう?
「アズマ君、自由って英語でなんていうんだっけ?」
「フリーだよね、さすがにそれは僕でもわかる」
「このオーバルに向かってもう一度言ってみて」
ライラは、球体状の風景のことを、どうやらオーバルと呼んでいるらしい。
「フリー」
思いっきりカタカナ英語で発声した瞬間、オーバルが反応し、なにやら騒がしくゆらめきはじめた。僕は目を凝らして、揺らめきながら変化していくオーバルを見つめていた。もやのようにうねっていた映像が落ち着き、浮かび上がってきたのはなんと、自由の女神でも、ロックコンサートで盛り上がる観衆でもなく、たくさんの跳ね回る蚤だった。
「アズマ君、うまく現実化させたわね」
ライラはまたあの超音波に近いような声で楽しそうに笑った。
「フリーマーケットは自由市場(free market)じゃなくて蚤の市(flea market)ってことね」
「僕がLとRの区別ができないまま、カタカナ英語で発音しちゃったからか」
「そういうことでもないのよ、まあ、しばらくオーバルをみつめてみて」
ライラがそういうと、オーバルの中の蚤たちは元気いっぱいに飛び回りながら、近くにいたネコたちに飛び移りはじめた。よく見ていると、少し薄汚れている子の方にたくさん飛び移っている。
「どうしてあんなにたくさんネコがいるのに、蚤が寄っていくネコとそうでないネコがいるんだろう?」
「いい質問ね。蚤もシラミも、人間の都合で害虫と決めつけている虫たちは、滞って淀んでいるところを分解して、お掃除してくれているのよ。澱んでいないところには寄ってこない。みんながだいきらいなゴキブリだって、汚れがたくさんあるところしか基本的に這い回らないでしょう?」
ライラの言う通り、蚤がよってこないでぴんぴんしているネコもいるようだ。そういえば、人間の世界でシラミが流行ったときも、精神的に参っていたり、体調が悪く老廃物の分泌が多くなってしまっている人のところにやってきやすい感じがあったかもしれない。
「確かにそうだよね。それにしても、蚤を見ると、やっぱりぞわぞわしちゃう。どうしてこの、あんまり好きになれない虫と、希望に満ち溢れた自由という言葉が、ほとんど同じ発音で紛らわしいんだろう、嫌になる」
僕がため息をつきながらそう言うと、ライラはまた楽しそうに笑った。
「あのさ、そうやって蚤が分解してくれたら、汚れてたまっていたところがきれいになるでしょ。部屋が片付くと、今度は何をしようかなって気持ちが明るくなって動き出したくなるじゃない?だから、freeもfleaも、どっちも、自由や解放のイメージというところで、なんの違いもないのよ」
「LとRの発音を間違えることで、よく笑われるんだよね。」
「そうよ。だけどそれはね、言葉とイメージの本質的な意味を知らないかわいそうな人達なのよ。」
「かわいそう?そんなふうに考えたことなんかなかったな」
「このLとRの発音の違いがない言語の代表が、日本語。日本語はシンプルで、もとをたどるととても古い言語だと言われていて、一説によるとレムリアの言葉ではないかと言われてる。レムリアの言葉の特徴はまさに、LとRの区別がないのよ」
ライラがオーバルに手をかざして目を閉じ、何かを念じると、たくさんの英単語がすごい勢いでキラキラと揺らめき始めた。よく見ると、同じ綴りだけどLとRが入れ替わっている同士、の例がたくさん並んでいる。
「うわー、こんなにたくさん、そっくりだけど違う言葉があるのか」
僕が驚いているとライラは言った。
「そうよ。蚤がいらないものを片付けて下準備してくれるからこそ、自由になって生き生き動き回れるようになる。どちらも同じ物語。オーバルにはそれが映ってしまって、現実世界のように区別ができないのよ。さて、ひとつひとつ、解いていくとしますか!」
ライラは嬉しそうに、立ち上がってコーヒーを淹れはじめた。
メリー・秋祭り
部屋の中は、僕がつくったくまのお部屋と雰囲気はそっくりなのだけど、もっといろいろな営みがされていて、僕のほうが驚かされてしまう。あの世界は僕の思いつきではなくて、僕が実際に存在するくまとライラの世界に、後から触れただけだったのだろうか。くまは、僕が紙粘土細工と毎日お話をしていた頃と同様、やはり寡黙で、だけど目は笑っていて、テキパキととても楽しそうに、手を動かして洗ったり、刻んだり、時折オーブンの様子を見に行ったりしている。お客は今の所僕しかいないようなのに、とても忙しそうだ。
アーチ型になった三方枠の向こう側に入り、ライラが何かを抱えて戻ってきた。長い間かいだことのない、甘くてとてもいいにおいがする。
「アズマ君、桃のパイ、食べられるかな。焼けたのよ」
ライラがそういって、熱々の美味しそうなひとかけらを、切り分けてお皿に載せてくれる。
「うわー、いいにおいで美味しそう。久しぶりにこのにおいを嗅いだよ。甘いものを食べたくなってもせいぜい、コンビニで売っているスイーツくらいしか買わないから、こんなできたての香りなんてどれくらいぶりだろう?」
僕は懐かしくてとてもうれしくなった。でも、ある事実を思い出してしまった。
「ライラ、ごめん。だけど僕、果物アレルギーなんだ。こどものときは大丈夫だったんだけど、ここ数年、食べると湿疹がでたりして、医者にはアナフィラキシー起こすかもしれないから避けておけって言われてるんだ」
僕はこんなに美味しそうなパイが食べられないことが悲しかった。そして、いろいろ異世界に来ているのに、どうしてこういうところだけ現実の自分なのだろう、とおかしくて笑ってしまうのを抑えられなかった。
「アズマ君、いたみ止めとか、気分をよくするくすり、たくさん飲んでいたんでしょう?」
ライラは、近くの席に座ると、くやしいくらい美味しそうに、僕が食べられないパイを代わりに食べ始めた。
「なんで知ってるの。」
「痛いという感覚が、何を伝えてくれているのか、をアズマ君は無視してしまったのよ。だけど、永遠に無視し続けることはできない。果物が食べられなくなることと、痛みを止めることが関係していると思う?」
「僕、果物だけじゃなくてアボカドとかラテックスの仲間もだめなんだ。ゴム手袋をはめたら、手が腫れ上がってしまう。」
「あのさ、火災報知器が鳴ったら、アズマ君、どうする?」
「どうするって、そりゃなにか燃えてないか確認して、もしも燃えてたら消火器で消すよね、無理そうだったら消防署に連絡」
「でしょ?痛みを薬で止めるということは、火が燃えて火災報知器のベルが鳴り響いているときに、火を消さずに火災報知器のスイッチだけ止めて、ああ、これで大丈夫だ、って安心することと同じなのよ。」
ライラは僕の瞳をしばらくじっとみつめて、言った。
「……じゃあ、僕の中でまだ火は消えていないってことなのか」
ライラにそう言われて、また鈍い偏頭痛が蘇ってきた。この痛みが来ると、何も考えたくなくなって、頭が灰色で塗りつぶされてしまう。くそっ、よくわからん異次元に迷い込んでいるなら、痛みの感覚もなくなってくれればいいのに、どうしてやたらリアルなままなんだろう?
痛みで顔をしかめて黙り込んでしまった僕をちらっとみていたくまは、冷蔵庫から生姜を取り出してさっとすりおろし、梅干しと醤油を入れてお箸で潰すように練り始めた。しばらく練ったあと、暖炉にずっとかけてあった鉄瓶に入っていた番茶を注ぎ、持ってきてくれた。
「いきなり和風やけどな、これええねん。飲んでみ」
くまがはじめて喋ったので僕はびっくりした。しかも、関西弁…
「ありがとう」
僕はそう言って、くまお手製のお茶をひとくち飲んでみた。しょっぱくて、少しすっぱい。普段は絶対口にしない味。飲み慣れている甘いコーヒーとまったく反対の味わい。飲んだ瞬間の、気持ちが華やぐような高揚感はない代わりに、じわっと、体全体があたたまってくる。その感覚がとても懐かしく、心地よかった。気づいたときには、しっかりとマグカップ1杯、お茶を飲み干していた。そして、頭の痛みが嘘のように消えていた。
「で、まだ消えてない火、は何なんやろな」
くまにそう言われて、僕は思い出したくないような、もやもやした感覚がうずまき始めた。
「君みたいになってしもた人、表の店にぎょうさん来てたで。そやけどな、ほんまの意味で今消さなあかん火を消して、ちゃんと灯した人はたぶんまだいない。まあでも、君はここに入れてんから、やれるってことやろ。がんばれ」
そういうとくまは、どこかから、くまとおそろいのエプロンを持ってきた。そう、僕が紙粘土細工を作ったときに、昭和の電気ポットにあるようなオレンジの花柄模様のエプロンを作ったのだけど、あまりうまく描けなくて、ちょっと歪んで酔っ払ったようなサイケ柄になったのが、ほんとうにそのまんまなのでおかしくてたまらない。僕のイメージ力のあいまいさがそのまま再現されている世界。引き寄せの法則とか、そういった自己啓発みたいな話は耳にしたことがあったけれども、ここまではっきりと、僕のイメージ力の結果、のようなものを現実に見せつけられると何も言えなくなってしまう。
「君が火を消して灯せるかどうかは、やってみんとわからんから。ほれ、エプロン付けて」
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そういうとくまは、小麦粉や卵など材料が乗ったトレイと、ボウルや泡立て器、それからみたことがないドーナツ型の金属の入れ物を抱えて持ってきた。
「小麦はいけるんやろ、ほんならまずは、基本のシフォンケーキつくるで」
基本って…なんの基本なんだ?僕がそう思ったのを読み取ったかのように、くまは言った。
「力の世界の基本を知ることは、魔法と呪縛を知ることと一緒みたいなもんや。昔、割烹着着て研究して人気が出た人いたやろ。台所をなめたらあかんねん」
そういうと、くまは慣れた手付きで卵を割り、その殻を上手に傾けながら、黄身と白身に分けて、ボールに次々と入れ始めた。
「なんで黄身と白身を分けるの?ホットケーキとかまるごと入ってるのに」
「メレンゲつくるねん。メレンゲが一体何やねん、ってのはな、痛みのメカニズムもそのものやねん」
そういってくまは、白身だけが入ったボウルに、グラニュー糖を入れて、泡立て器で泡立て始めた。
「電気でグイーンってやるハンドミキサーみたいなやつ、使わないの?」
「あれな、使ったら速いねんけど。今日はな、ちゃんとメカニズムを知らなあかんから、自分でやるねん、ほれ」
そういって、くまに泡立て器とボウルを手渡された。
「これ、一度ゆすいでおくね」
そういって僕は流しで軽くボウルを洗って、水しぶきがついたままのものに、卵を割り入れようとした。
「あっ、それはあかんねん。水は1滴も残らへんくらいちゃんと拭いてからしないと、メレンゲが膨らまなくなる」
くまはそういって、乾いてさらっとした手触りの蚊帳ふきんを持ってきた。
「ええやろこれ、ずっと使ってるから水をよく吸うし、気持ちがいいねん」
僕は面倒だなと思いながらも、くまの言う通り、水分をきっちり拭き取ってから、卵を割り、黄身を上手に選り分けて、別の入れ物に入れた。
卵をじっくり観察することなんて、どれくらいぶりだろう。卵白は、びっくりするくらい弾力があって、ひとまとまりなまま離れない。まるで、そのひとまとまりさを引きちぎるように、泡立て器はその弾力のあるなにか、へ果敢に切り込んでいく。何度も何度も混ぜるうちに、はじめはもっちりと透明だった卵白が、空気をはらんでだんだん白くなってきた。だけど、いっこうにふわふわする様子は見られない。もう僕は腕と手首がだるくなってきて音をあげそうになってしまった。
「なかなかうまいやん。そうそう、グラニュー糖をちょっと足してみ。残りはもうちょっと後で」
くまはそういうと、別のボウルで、さっき分けた卵黄と、小麦粉と、油、水、薄力粉を入れて混ぜ始めた。
「どうせ卵黄も使うのに、なんでわざわざ卵白は別で泡立てるのかわからないな。」
「力の基本は、分けることからはじまるねん。さっき宙を舞う数字を見たやろ。引き裂いたり折るとな、そのたびに、もともと完全に調和しているものの片側が殺される。そのことが、力の源やねん。貸してみ」
くまは手際よく、リズミカルに泡立て器を回転させる。あっというまにふわふわふくらんできたメレンゲは、はじめのころのぬるぬるとしたこしのある感覚がいつのまにか消え、生クリームと区別がつかないくらい、白くてなめらかで軽く、ふわふわななにかに変わってしまった。もう、卵の白身とは思えない。完全に質が違ってしまったというのがはっきりとわかった。
「今、たぶん卵が死んだんやね」
「みてみこれ」
そういってくまは、白いクリームのような泡を少しすくって息を吹きかけ、宙にオーバルを作り出した。
オーバルはかなり薄暗い感じで、なにかがゆらめいているのに、何が映っているのかよくわからない。目を凝らしていると、トン、トン、トン、トンとなにかを刻むような音が聴こえてきた。トン、の音の感覚が少しゆっくりなので、ちょっと硬いものを刻んでいるのだろうか。しばらくすると、醤油とみりんの香りがふわっと漂ってきて、なにかが炒められている映像が次第に浮かび上がってきた。どうやら、きんぴらごぼうのようだ。さっき刻んでいたのは、ごぼうか人参だったらしい。だんだんと明るくなって、あたりの様子が見えてきた。きれいな同じ大きさの短冊のかたちに刻まれたたくさんのごぼうと人参。台所の様子から、かなり古そうな建物なことがわかる。台所というより、土間の一角のようだ。料理をしている女性の近くに、小さな女の子がまとわりついている。折り紙をしている途中のようで、いくつもの折られたカラフルな鶴と、まだ折っている途中の鶴が畳に散らばっている。女の子は、切り終わったごぼうと人参をひとつかみわけてもらうと、大事そうに並べ、すみに腰掛けて数え始めた。
「いちにいさんまのしっぽ、ゴリラの息子、菜っ葉、葉っぱ、腐った豆腐」「じゅういちじゅうに、じゅうさんじゅうし、じゅうごじゅうろくじゅうしちじゅうはちじゅうく、にーじゅっ。ねえお母さん、どうして、二十のことを、ハタチっていうんやろ。こないだいとこのまりちゃんがお祝いしてたよね、どうしてめでたいの?」
「数えるのがとても上手になったわね。きんぴらごぼうのきんぴらは、長―い階段があるこんぴら神社の金毘羅、とも音が似ているでしょう。こんぴらの音は、クンビーラというワニの神様とも言われているけど、ワニの歯のギザギザも、階段に似ているね。これは、カバラという数の魔法の秘密なのじゃないかな、とお母さんは思っているのよ」
「ギザギザ模様がどうして数と関係があるの?」
女の子がたずねると、母親らしき人は、冷蔵庫から巻き寿司を取り出してきて、食べやすいように切り分け始めた。
「ライラ、巻き寿司って、切らなかったら1本、数えると1よね。だけど、こうやって小さく輪切りにしたら、全部でいくつになった?」
「いーち、にー、さーん、しー、ごー、ろーく、しーち、はーち、きゅう。わあ、9個ある。数が増えたね!」
ちいさなライラは目をキラキラさせ、そしてそのうちの1つをさっとつまみとってポイッと口に入れ、満面の笑みでほおばりはじめた。
「こら、つまみ食いはだめっていつも言ってるでしょう。それ、みんなで分けて食べる分なんだから」
「切ったらみんなで分けることができるけど、あたしはまるごと1本食べてみたいなあ!だってたくさん食べられるもの」
ちいさなライラはそういって少しふくれた様子を見せた。
母親は忙しそうに、今度は何やら小さな手回しがついている機械と、ひとかたまりにまとまった小麦粉生地のようなものを持ってきた
。
「あなたの大好きなパスタ、つくるわよ」
そういって、母親は、機械に生地を入れ、蓋を閉めて、ぐるぐると取っ手を回し始めた。格子状になった出口のところから、きれいに揃った太さの麺がにゅるにゅると、次々押し出されてくる。ちいさなライラはそれをとても興味深そうに、じっと見つめていた。
母親は、できたばかりの生パスタを、お鍋でゆでている間、ライラは縁側に座って、気持ちが良い風を感じながら、また折り紙をはじめた。ライラが折ったものはとてもぴったりと端っこが揃っていて、羽をひらいたときにほんとうに美しい。だけど、時々少しずれているものもある。折っているうちにだんだん上達してきたのかもしれない。
ちいさなライラは、たくさんのできあがった折り鶴の中から、目が覚めるような青色をした1羽を選んで手のひらに乗せ、ふっと息を吹きかけると、なんとほんとうの鳥に変化した。鳥の方も驚いた様子で、ここは一体どこかしら、と目をぱちくりさせながら、おっかなびっくり羽を動かして、だけどちゃんと動くことに安心したのか、向かいの大きな木のところまで、あっというまに飛び去っていってしまった。だけど、さっきの少し折り方が甘かった子は、息を吹きかけても折り鶴のまま、変化しなかった。
「ライラ、折るときにちゃんと集中しなかったのね。それは結果をみたらすぐにわかる。次からは気をつけてね」
「はーい」
そういってライラはまた、折り紙を折り始めた。その日はほんとうに日差しが明るく、縁側は心地よく照らされていた。ふと、遠くから、お囃子の笛の音が聴こえてくる。掛け声と、リズミカルな金属音が、交互に鳴らされ、その音がだんだん近づいてきた。お神輿に乗っていたのは、飾りのついた箱ではなく、金色に光った牛だ。神輿はかなり重い様子で、たくさんのはっぴをきた男性が、汗だくになりながら担いでいた。
ライラの母親が巻き寿司や飲み物の入った包みを手渡すと、お囃子のひとたちは不思議なメロディーの、けれどどこかで聞いたことがあるような一節を演奏し、お辞儀をして去っていった。
お神輿が去ってしばらく、あたりは静まり返り、お料理を作り続ける母親のたてる、洗い物の音や、何かをぐつぐつ煮込む音しか聴こえない。ライラの折り鶴はどんどん増えていく。
どのくらいそうしていただろう、突然、かなりあせったような軽い足音が響いてきた。
「ライラ、この子、僕のところに来てた」
半ズボンをはいた小さな男の子は、ずっと両手をつぼんでいたのをそっとゆるめると、手のひらの中にはなんと、さっきライラが生み出した青い小鳥がいた。
「ごめんなさい、迷い込んだのね」
ちいさなライラはそういって小鳥になにか話しかけると、小鳥は男の子が来たのと反対の方向に、空高く舞っていった。
「それから、これ、お母さんが持っていけって」
男の子は、折り箱にぎっしり詰まったソーセージを渡した。
「こんにちは、ここまで遠かったでしょう。アズマ君、ありがとうね。これをおうちの方にお渡しして」
そういってライラの母親は、巻き寿司と金平牛蒡を、お土産にもたせた。
「ありがとうございました!」
「いいえ、こちらこそ」
「アズマ君、またね。」
ちいさなライラは、ちいさなアズマ君に手を振った。
オーバルに映し出されていた景色は、いったんぼんやりと暗くなって、何も見えなくなってしまった。
「そういうことやったんやな。アズマ君はこのときのこともう覚えてへんの?」
「小さかったから…でも、あの青い小鳥は見覚えがある。」
そうつぶやいて、ふと外をみると、窓の外に、さっき手のひらの中にいたのと同じ、真っ青な鳥が、枝にとまってこちらをみつめている。
「あれ、インコとか南国の鳥と色は近いかもしれないけど、かたちはスズメみたい。やっぱりライラが生み出した子だ」
そういったとたん、オーバルにまたなにかが映りはじめた。今度は、少し昭和っぽい洋風の一戸建てが見える。庭にはかたちがばらばらな、たくさんのプランターや鉢が所狭しと置かれていて、ちょうど季節なのか、色とりどりのコスモスや、放置されて勝手に生えてきたのか、セイタカアワダチソウが大量に揺れている。
「ただいま!」
ちいさなアズマ君が小走りで駆け込んだのが、この家だった。
オーバルをみつめていた僕は、また鈍い痛みにおそわれた。気づくと、僕はちいさなアズマ君自身になって、コスモスが満開の玄関に立っていた。
「おかえり、遅かったね、一体何を持って帰ってきたのか見せなさい。」
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