善光寺御開帳
昨日、松代より回向柱が無事奉納されました。前日祭には元オリンピック選手長野市長の来賓ご挨拶も。
写真は真田家14代当主真田幸俊さん。コロナ禍でなければこの伝統ある奉納に参加できていたかと思うと残念です。
善光寺御開帳とは?
国宝善光寺においては七年毎に前立本尊の御開帳大法要を厳修せられるのでありますが、その際如来金堂並びに釈迦堂大広前に大供養柱を建立、この供養柱より白布を御本尊の御指に連ね、万民悦楽、含霊普潤を願いまた護っていただくものであります。御開帳の期間は全国より数百万の善男善女が善光寺に参拝、回向柱に香を捧げてこれを排する次第です。
今年(令和四年)の御開帳は4月3日から6月29日までの88日間にわたる盛儀です。
松代と善光寺の由来
善光寺御本堂は人皇35代皇極天皇の三年(644)長野の地に初めて建立され、大同四年(809)の第一回以来元禄十三年までに十数回の火災に遭い消失。善光寺の今の本堂、金堂は徳川幕府が松代藩三代藩主真田幸道侯に再建を命じ元禄十六年に再建に着手し、宝永四年に落成。幸道侯は家老小山田平太夫を普請奉行として建築を監しました。こうした善光寺と松代藩の縁故から数え年で七年に一度行われる御開帳に本堂前に建てられる回向柱は毎回松代町より寄進される習慣となっています。
私は真田会会員で、紀州真田会を設立しています。真田会から善光寺御開帳回向柱寄進の案内が届いたので、この歴史的行事に賛同させていただきました。
善光寺縁起
昔、天竺(インド)の大金持ち、月蓋(がっかい)長者が阿弥陀如来によって一人娘の如是姫(にょぜひめ)の病気を治してもらったことを喜び、阿弥陀如来のお姿を「一光三尊像」にして祀っていました。その仏像は時を経て朝鮮半島へ。そして日本の欽明天皇のもとに、仏教とともにもたらされました。しかし、後に悪い病気が流行った時、物部氏によって難波の堀江に捨てられてしまいます。それを拾い上げたのが信濃の人、本多善光。善光は故郷の麻績郷(現在の飯田市)にお連れしさらに阿弥陀如来のお告げに従い、現在の地に御堂を建てて安置しました。それが秘仏である御本尊であり善光寺のはじまりなのです。
牛に引かれて善光寺まいり
昔、信濃国小県の里に心の貧しいおばあさんが住んでいました。ある日、川で布を洗い干していると一頭の牛が現れ角に布を引っかけて走り出しました。その牛を追いかけて、おばあさんがたどり着いたのが善光寺。日が暮れてお堂に入ると光明に照らされた牛のよだれが「うしとのみ思ひはなちそこの道になれを導く己が心を」と読めました。すると、おばあさんはすっかり信心深い人間に生まれ変わりました。後日、近くの観音堂に詣でると、観音さまの足元にあの布が。おばあさんは牛は仏様の化身と知りますます善光寺への信仰を深め、めでたく極楽往生をとげました。
善光寺と戦国武将
川中島の戦いがきっかけで、善光寺のご本尊が武田信玄から織田信長、信長から豊臣秀吉、秀吉から徳川家康へと、戦国武将により各地を転々とします。
天下を掌握した豊臣秀吉は、慶長の大地震で京都の大仏殿が崩壊してしまい、その翌年に善光寺のご本尊を甲府から移し、京都方広寺のご本尊とします。しかし、豊臣秀吉は病気になってしまい、それが善光寺如来の祟りだと噂されるようになりました。そのため、慶長3年に急いで善光寺へご本尊を送り返しましたが、ご本尊が京都へ向け出発した次の日に豊臣秀吉は亡くなったとも言われています。
こうして、約40年ぶりに善光寺のご本尊である如来様は信州長野の善光寺に戻ったのです。
なにかとネタの多い善光寺ですが、真田氏にゆかりのあるお寺だったので興味深く感じました。真田ファンからすると、そもそも徳川幕府が松代藩に再建を命じた理由も気になりますよね。
松代町は真田の聖地なので何度も訪ねていますが、善光寺にはおまいりしたことがありません。今年は訪れてみたいです。