認められることを手放す、認められたいことを認める
もしあなたが、書くことを通じて成長や変容をすること、もしくはいのちを生きることを目指しているなら、おすすめすることはただ一つ。
認められることを手放すことだ。
「いいね」の数や反応を気にしない、とも言える。
認められたいという欲求は人間が根底に持っている欲求であり、わたしたちが人と人とのあいだで生きることを支えてくれる大切な欲求でもある。
ただ、現代社会においては「認められることが良いことだ」という価値観の植え付けがあまりにも大きい。
成功すること、賞賛されること、そのために何かをすること。
「何かをする」と言えば聞こえがいいかもしれないけれど、そこで起きているのはいのちの消費だ。
お金を使うことも、時間を使うことも、結局はあなたのいのちを使っているということだ。
煽られた欲求は結局のところ満たされることはない。
そんなことに、あなたのいのちを使って何の意味があるだろう。
だからもし、書くことを通じていのちを生きることに取り組みたいなら、やることはただ一つ。
書いたものを通じて、もしくは書いているということを通じて、誰かに認められようとしないこと。
意識の成長や発達、変容を目指している場合も同じだ。
誰も読まずとも、誰にも認められずとも、深く深く、自分に向き合っていく。体験を見つめ、自分の内面を見つめ、そして現実世界に踏み出していくこと。
そのためにおすすめなのは、誰にも見られない場所で書き続けるということ。
自分で自分に目を向け、問いを向け、共感を向け、批判を向け、書き続ける。
それがあなたのいのちを解放してくれる。
もしあなたの中に「認められたい」という気持ちが本当はあるのなら、まずはそれを認めること。
その気持ちを隠して、人の反応なんて気にしていないかのように小綺麗な言葉を並べても、あなたの「認められたい」という気持ちは満たされない。
認められたいと叫べばいい、自分を思いっきり抱きしめたらいい。
自分に正直になることは勇気がいる。
だけど、あなたはいつになったら自分に正直になること、正直に生きることを許すのだろう。
誰にも見られずに何かを続けることは孤独だ。
だけどその孤独こそが、わたしたちに真の解放と開放をもたらしてくれる。
あなたのいのちに伝えたい。
あなたはそこにいるだけで大切な存在だ。
だれかに認められる必要はない。
それでもやっぱり認められたいという気持ちがあってもいい。
そこにあるものがどんなものであっても、まずは自分がそれを認める。
そこからわたしたちが「いのちを生きる」ことは始まっていく。
「孤独」は「いのちを生きること」においてとても大切なことのような気がしています。孤独、と言っても、孤立や寂しさを完全に重なるものではありません。
そんな感覚に出会えたことは幸せなことだったと感じています。
以前、参加した講座の中で孤独について綴った記事を公開します。
「孤独」の質感が変わることが、誰かがいのちを生きる後押しになるといいなと思っています。
【第4回事後課題】solitudeという孤独の先に
「孤独」という言葉から『孤独のレッスン』(季刊誌kotoba 2019年冬号)の序文を思い出した。
「孤独」を示す英単語にはisolationやlonlinessの他にもsolitudeという単語もある、ということを知り、ちょうど当時約1年ほど暮らしたドイツを離れひとりオランダにやってきて物理的な孤独を味わっていたわたしは、寂しさ以外の質感を持つ孤独もあるのだと、随分と勇気づけられた。
孤独の中に身を置いた先人たちがいるのだということは今でもわたしの支えになっている。(だから序文のページを写真に撮って今でも保存してある)
モロッコの海辺の街に滞在しているとき、一緒に旅をしているオランダ人のパートナーがDune(海辺の砂丘)にひとりハイキングに出かけたことがあった。(どの国でも彼はときおり一人で山登りや散歩をしている)
街から出た後の5時間ほどは誰にも会わなくて、地球の上にひとりぼっちになったように感じたという。
そんな中、彼は、砂丘で服を脱いで子どものように駆け回り、でんぐり返しをして、海に飛び込んだんだと、嬉しそうに話していた。
孤独というと社会や人との繋がりが絶たれることをイメージするかもしれないが、もしかしたら人ではないものや目には見えないものたち、もしくは自分のいのちとのつながりが深くなるのかもしれない。
孤独というと何か内に向かう静的なイメージを持つかもしれないが、ひとり静かに暮らしていた哲学者や芸術家たちも、月明かりの下、裸で踊っていたかもしれない。
何にも囚われず、何にも依らない責任を引き受けたとき、自分の中に息づくさまざまな命が蠢き出すのかもしれない。
わたしたちはいつも、自分がかけているレンズを通して世界を見ている。
自分がかけているレンズを通して想像をしている。
そこで出会う美しさも哀しさも、誰とも分かち合えないものなのだということを受け入れたとき、わたしたちは社会の中で身に纏ったつながりから解放され、究極的な孤独の中でしか感じられない安らぎのようなものに気づくのかもしれないと、今はそんなことを思っている。