ケアする人の、ケアということ
“誰かをいたわるあなたも 大切にいたわられる存在”
正解がないかかわりを問い続ける尊さと難しさ
たくさんのゆらぎや葛藤の中で,かかわる相手のことをたくさん想うひとが
どうかどうか大切にされる世界を紡ぎたい
◆「ケアするひと」の言葉の定義
心理、対人、福祉、介護、教育、福祉、居場所、医療、看護、国際協力、ボランティア…
子どもから高齢の方まで、どんな年齢の人とのかかわりでも
仕事でのかかわりでも、身近な人とのかかわりでも
ひとの”生”と向き合う、よりそう、まじわるひとを、“ケアするひと”と。
分野横断的な対話の場をつくりたいと思い、広く”ケア”という言葉を使っています。
いわゆる"支援-被支援"の関係にとどまらず
エンパワメントや"共にいる"、"共にある"というかかわりまで。
人が生まれてから亡くなるまで、具体的なかかわりは違っても
人が生きるとはどういうことか、ひとの幸せとは何か、ひとに寄り添うとは何か
本質はすべてつながっているから
◆私が感じている、考えている“ケアする人のケア”における課題としんどさ
※あくまで仮説、個別的なもので一般化すべきものでもないと思いながら、
こういう傾向があるのではないか…という私の視点
〇相手のためと自分のため - バランスをとることの難しさ -
⇒相手の"ケア"を想うゆえに相手だけにベクトルが向きがちになる。あるいは疲弊して完全に自分のエゴ的なかかわりになってしまうことがある
〇答えのない営みに向き合い続ける尊さとしんどさ
⇒答えのない人の生の本質への問いを大切に扱える場や多様な視点の不足
〇人と向き合うことは、自分と向き合うこと
⇒自分の価値観、自分と向き合わざるをえない尊さと豊かさとしんどさ
〇感情労働としてのかかわり、自分の感情の行き場のなさ
⇒ケアする側の感情を取り扱う対話やカウンセリング機会の不足
〇動機としての自分の内側にある痛みや弱さとの向き合い
⇒(仮説)ケアにかかわる動機として相手の痛みへの共感性があり、そのもとを見つめたり、向き合う必要があるときがあるのでは
〇経験論になりがち=“想い”や“願い”を大切にしにくい
⇒人としての願いや想いをベースに、経験値を重ねていくかかわりの大切さ
〇ケアする相手とのかかわりのウェイトが大きくなる
⇒社会の多様な人とつながる機会の不足、仕事を俯瞰する視点をもつ機会が少ない
〇世間の”ケア=誰でもできる”(仕事)、”やって当然”(家族間)というまなざし
⇒専門性の認識の欠如(仕事)、家族の中の自己責任論(ケアの社会化の視点の欠如)
〇学問的研究の不足
〇長時間、低賃金(職業として)、無報酬(家族間などで)など、ケアする人の余裕のなさ
〇“ケア”にかかわるキャリアの選択肢や情報、体験の不足
◆ケアする人のケアについての私なりのアプローチ
(現時点で考えていること)
自分の想いや感情に立ちかえる
↓
自分をケアすることと他者をケアすることのつながりに気づく
↓
自分自身をいたわり、ほどく
↓
自分自身や答えのない問いに仲間と向き合う
◆これまで私がやってきたこと(一部)
“ケアする人”のための対話の場づくり (例)
’23年 2/4(土) 14:00-18:00 “ケアのあわいろ -関わるわたしとあなたのあいだ-” @東京
人と関わることで生まれる喜びがある
ひとと関わることに伴う自分の痛みがある
関わるわたしと、あなたのあわひ(あいだ)の距離を考える
わかりあえない、変えられない、よりそえないこと
それでもわかりたい、よりそいたい、共にありたいこと…
’23年 9/3 14:00-17:00 "うごめくいのちと" ~対人・ケアにかかわるあなたへ~ @仙台
人と関わることに、正解も不正解も、マニュアルもないから。
ゆっくり息を継ぎながら、嬉しかったことやもやもやしたこと
うまく関われなかったことや戸惑いや自分の価値観のゆらぎも
自分の中にあるきもちをそっと見つめ、
少しだけそっとわかちあい、自分の想いに立ちかえる、
答えのない問いを一緒に考える、てつがくする
◆これからやってみたいと思っていること(現時点)
・思い切り自分にベクトルを向けたリトリートの企画
・ケアのてつがく、人の生にかかわる問いを見つめる分野横断的な対話の場
・”ケア”にかかわる組織や団体内での研修や対話の場づくり
… and more
なにか一緒にやってみたいという方や
職場や団体等で研修を考えたいという方
ぜひぜひご連絡いただけたら嬉しいです!!
おわりに
最後にいつもながら、大好きな漫画「夜廻り猫」より
そんな世界を、小さな小さなところから紡いでいきたい
✽関連note
・わたしにとってのケアのこと
・私が紡ぎたい場のこと
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?