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続 わたしと、うごめくいのちと

“うごめくいのちと”、向き合うという
答えのない営みを問い続けることを、
そのゆらぎや葛藤を、いつくしむことができたらと思う

この記事は、以前のこのnoteの、続きというか、追記というか
なんで私がこういうことを思っているのかをもっと書きたくなって書いたものです。

答えのないものと、1人で向き合い続けることは難しい
それを一緒にできる仲間がいたら、とってもありがたい
あわいろの"うごめくいのちと"では、
あえて分野を超えて語らうことで、その答えのない問いを大切にできるかもしれないと思っている
分野の中だと、知識や経験に答えを求めることがある。もちろん実際の現場で、それはとてもとても大切なことでもある。
でも、こういう営みの専門性は、知識や経験だけじゃなくて
答えのないものを、日々問い続ける態度にもあると私は思う

分野が違うからこそ、安易に相手に答えをアドバイスをだせないからこそ
いっしょに、フラットに、
その答えのない問いに向かうゆらぎや葛藤を大切にできるんじゃないかと考えている
そうやって経験や知識じゃない、想いでゆらぎや問いを語り合えるコミュニティがあったら、答えのない営みに向かう"こころの体力"が、すこしもてるんじゃないかなと思っている

誰かのためと自分のための、あいまいな境界とバランス
誰でもできるかもしれない、けれどそこにある専門性
いのちを守ることと、そのひとの尊厳と、生活と
いろんな話を、してみたい


きっかけ -わたしと、うごめくいのちと- 


1. 中学3年生、「共に生きる」という原点

以前の私は、”コト”へのこだわりが強かった
子どもとかかわる”コト”、自然とかかわる”コト”…
でも、いろんなきっかけで、あわいろを描き始めて
その根っこにあった、”みんなが自分が自分を生きる、やさしい世界を紡ぐ”っていう想いに気づいて、“コト”へのこだわりがはずれた感覚がある。それまで正直そこまで関心をもってなかった介護も、以前関わってた障がいの分野も…つながってくる。

ふと思い出すと、ボランティア部という部活でボランティアと出会った中学生のころ、こんなことを書いていた

ある高齢者施設で職員の方がこんなことを話してくださった
「ボランティアは"誰かにしてあげる"というのではなく、その人と共にふれあいながらやるものだ」まさにこれが私達の感じていた、真のボランティアだと思う。
大げさに言えば、ボランティアは"共に生きる"ことではないか                 (中学3年生の時の部活のまとめの文章)

「真の」ボランティアとか、「大げさに言えば」とか、いまだったらなくてもいいなぁと思うけれど、でも本質は気づかせてもらっていたなぁと思う。
中学のボランティア部では、地域のお年寄りのお茶会でのお手伝いや児童館の訪問、点字や白杖の勉強から地域清掃まで、広く活動をしていて、その中での、この想い。立ち返るのはここだ、とふと思った。
(ちなみにこのことを書いた文章のおかげで、私はありがたいことに全国のボランティア仲間と出会わせてもらって、それがそのあとの私の人生を大きく動かしてくれた。またいつかこのことも書きたい)
大事にしたいことは、”コト”ももちろんだけど、想い
共に生きるって、どういうことだろう
問い続けたい問いが、ここにある

2. クリスチャン・ボルタンスキーとの出会い

昨年、国立新美術館の、クリスチャン・ボルタンスキー展を観て、とても心うたれ、夏には新潟まで作品を観に行った。

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ボルタンスキーの作品の大きなテーマが「不在」や「死」だ。

「不在」や「死」によって、現在の「生」を感じる、このモチーフは、ボルタンスキーにとっても大きなテーマであると言えるでしょう
(大地の芸術祭、影の劇場 〜愉快なゆうれい達〜 の展示解説文より)

弱いもの、はかないもの、衰え、老い、いたみ、孤独
そういうことと交わるとき、その時の心の振動は、いたみを伴いながら、それでも何か大切なことがそこにあることを教えてくれるような気がする
だからこそ、そういうことと関わり続けたいと思う
“生産性”が重視される社会の中で、何か抜け落ちてしまいそうな大事な何かが、そこにある気がする。それは、そういう人たちのためだけじゃなく、すべてのひとにとって大切な何かだと思う。
強くはない、けど確かに、精いっぱいうごめくいのちと向き合う営みを、そこにある大切な何かを、みつめたい

3.  じいちゃんの介助と、保育のつながり

昨年末、仙台に帰省して、じいちゃんの温泉の介助をさせてもらった
ものすごく、ゆっくり、弱く、儚く、
でも確かにうごめくいのちを
目の前に向き合いながら、そのひとを心から想うこと
保育の仕事ともつながってるなって思った
手伝ったら簡単、でも自分できっとできることはやりたい
心配すること、自尊心を傷つけないこと
先回りしすぎないように、でも先回りすべきことも
誰かに依存しないと生きられない部分と、それでも一人の人として生きているということ
最初から制限しないで、今のその人の状態を見て、判断すること
正直、慣れてなくて、自然になんかできなくて、すごく意識的に葛藤してた
物理的にじぃとは離れてるし、お仕事として介護されてる方とか日々向き合う家族みたいに
これが日常じゃないからこそ、ゆっくり待てたり待ちすぎてたりするとおもう
日常なら待ちきれないことも、焦ることも、いらいらすることも、ある
相手のことも、自分のことも、同時にいたわるって、どういうことだろう
相手も"いのち"、自分も"いのち"だからこそ
こういう営みに、正解も不正解もきっとなくて
でもだからむしろ、自分のやり方に自信なんて持たなくてよくて
本当にこれでいいのか、これはだれのためなのか
答えのない問いを、いつくしむことができることは、尊いと思う

4.保育と、わたしと、答えのない営み

自然保育の現場で2年間お仕事をさせてもらって一番感じたのは、答えのない問いに向き合い、それを慈しむということのしんどさといとおしさ。子どもたちとのかかわりに、決まった方法や正解はないという当たり前のことが難しかった。ケンカを見守るのか止めるのか、挑戦を促すのか待つのか、子どもの意見で決めるのか大人の願いで決めるのか大人が提案して話し合うのか…決まった正解はなくて、その線はうごくのだ。
そして子どもたちの前では、偽りは通じない。自分という人間が、何を大切にして、どういう感情をもって、子どもたちと共にいるのかということを、問い続ける日々。
日々天候や自然の状態も変わり、毎日毎日子どもたちも成長し変化していく。その”今”を本当に大事にしつつ、そこに保育者としての願いを重ねていく。そんな当たり前の答えのない営みが、しんどくもあり、今では、いとおしく尊いと思えるようになった。

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最後に…

そういうことを通して、

誰かを生きさすひとが、生きていけますように… 
(https://withnews.jp/article/f0161119001qq000000000000000W04i10401qq000014321A     夜廻り猫より、再び)

「誰かを生きさすひとが、生きていけ」る、そんな世の中を描きたい
答えのないゆらぎを、そっと抱いて、心があたたかく生きられるように
そして、もっと大きく、誰かの生と交わる尊い営みにちゃんとお金という対価も合わせて循環するように
ちゃんとその答えのない営みの価値が、大事にされたら、そういうところまで、変わっていくことを願う。

そんな世界を、描きたい
まだ大きく告知はしてないですが、オンラインでの語り場やコミュニティづくりなど、小さくいろいろ実験してます
興味ある方、お問い合わせください

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