ロマンチストなのかもしれない

言葉って暴力的だよなと思う。言葉は時に鋭利になる。わたしは写真を撮るのが好きなのだが、写真も暴力的だよなと思う。写したくないものまで鮮明に写ってしまうことがある。
さて、わたしが好きなものたちが暴力に満ちているのか、この世が暴力的なのかどっちなのか。

もちろん、それらは、いかなる時も暴力ってわけではないと思う。というか、暴力的なものたちを暴力じゃなくすためにわたしたちは頭を使って考えるのであって、人と話し合うのであって、お互いを気遣うのだと思う。自分でも何を言っているのか半分くらいわかっていない。適当に話しています。すみません。言葉と写真は暴力的だと思っているのは本当です。

できるだけやさしい世界になってくれたらいいと思っている。本気で思っている。世界平和っていうか、みんなが穏やかでやさしい気持ちで過ごせたらこれ以上いいことはないのになと思う。

ただ、誰かの正義は誰かの悪で、誰かの悪は誰かの正義で、その中間のグラデーションも存在して、と思うとそんな夢物語が実現するのはなかなか難しいんだろうなと思う。人間はみんな違ってみんなおもしろいが、みんな違うからこそいざこざが起き、この世界の問題は次から次へと増えていっているんだと思う。当たり前のことばかり言っているが、わたしは当たり前のことも声に出さないと気が済まない。

生きているみんなにとってやさしい世界になるのはおそらく無理なんだろうなとは思う。でも、どうにかそうなってほしいと願っている。願っているからこそ、こんな世界でわたしができることはなんなんだろうと考えている。

さっき、言葉は暴力だと言ったが、流石にぜんぶ暴力的だとは思っていない。使い方によっては、というお話。わたしは言葉の使い方を気をつけようと意識しているが、他の人にも「わたしもそうしてるしそうしようよ」と言いたいわけではないし、言わないと決めている。そうじゃなくて、なんだろうな、むずかしいな、ちょっと待ってね。

みんなに「よーし!これから言葉の使い方とかもろもろ気をつけようぜ!!!!」と言う人になりたいわけでは一切ないし、「みんなでやさしい世の中作ってみせようぜ!!!!」と強制したいわけではないが、わたしはわたしの言葉を喋れるようになって、自分が死ぬまでに0.00000001ミリでもやさしい世の中に近づけることができたらいいなと思っているだけ。その「だけ」が大変だし、抽象的すぎるが、とにかくできるだけ多くの人間が生きやすい世の中になってほしい。できれば動物たちを含む生き物全般が生きやすい世の中でいてほしい。せっかく産まれてきたんだよ、できるだけハッピーに過ごしてほしいじゃん。

もっというと、今生きやすい人はそのままのびのびと生きられる世の中でいてほしいし、わたしみたいに少しだけでも生きづらいと思っている人がほんの少しだけでも息がしやすい世の中になってほしい。そのためにどうすればいいのかってずっと考えている。(わたしはすぐ「これについてずっと考えている」と言うが、同時並行で考えていることがたくさんあるだけだ。ずっと考えてるってのが口癖なわけじゃないよ。)

ちなみにこの文章に結論はない。ひとつ思っているのは、考えることをやめずにずっと考え続けることが大事だよね〜考え続けたいよね〜と思っているくらい。この世で息がしづらい理由ってもちろん個人差もあるし、絶対に複合的な理由だから、わたしが死ぬまでに結論はでないと思う。そして、わたしがなにかを大きく変えられるとはほぼ思っていない。でも、あきらめたくないと思っている。馬鹿なのかもしれない。それでもいいよと思っている。

わたしは自分が根明と根暗のあいだの人間だと思っていて(その中でもどっちかといえば根明だと思う)、どちらかに振り切っている人間ではない。すごい人間じゃないし、優しい人間じゃないし、慈悲深い人間じゃないし、いい人でもない。でも、全然ダメな人間でもないし、きつすぎる人間でもないし、愛を持とうとしている人間だし、いい人でありたいと考えて行動するようにしている。平均的といえば平均的な人間だ。まじで、ほんとにほぼ全てにおいて平均だと思う。ちなみに背は平均より全然低い。

そんなわたしだからこそ、どっちの気持ちや立場も知ったりわかったりしようとしている人間だからこそ(わかるとは言えない)、わたしにできることはないかと考え続けたい。そして行動したい。声に出したい。それで間違えてたらごめんなさいとしっかり謝って修正したい。

なんの話や。わたしの野望の話でした。世界がやさしくあってほしいと祈っている。ロマンチストなのかもしれない。

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