お葬式では自分の写真に囲まれたい

暗さに順位をつけることは難しいし野暮だと思うのでしないが、1番最初の暗かった時期にミラーレスのカメラを買って写真を撮ることを始めた。コロナ禍が始まって半年経ったころだった気がする。

その頃の記憶はわたしの頭の中からごっそり抜け落ちているので、なんで突然写真を始めようと思ったのかあまり覚えていない。多分、FUJIFILMのカメラを買うと決めたきっかけの方のブログを読んで、わたしも写真をはじめてみようかなと思ったんだと思う。

カメラを買い、写真を撮り始めて気がついたことがいくつかある。わたしは植物が好きだということ、お花はピンク色が多いのかもしれないということ、昼と夜の間の空のことはマジックアワーと呼ばれていること、雨粒は可愛いということ、世界はたまに眩しすぎるほど煌めいているということ、その他もろもろ。

SNSをみていると「私はこういう理由で写真を撮っています!」と言っている方をたまに見かけるが、わたしは自分がなんのために写真を撮っているのかよくわかっていない。わかる気もあんまりない。どっちでもいい。撮らせていただければいい。理由は特にない。

写真は、撮ろうと思ったその瞬間に、ある種の感動を感じないと撮れないものだと思っている。綺麗だな、可愛いな、素敵だな、苦手だな、こわいな。どんな種類の感情でもいいが、撮ったものには撮っただけの理由がある。なにか思わないとシャッターを切ろうとは思わない。すごく当たり前のことを言っているが、常々思っている。

わたしはあんまり写真が撮れない。撮りたいなーと思っても、シャッターを切ることができる回数が少ない。カメラを持ち出すものの、使わなかったという日ばかりだ。鮮明に写真に世界がうつることが少しだけこわいのもあるけれど、多分感動することが下手くそなんだと思う。それか感情を動かさないように無意識にセーブしているかのどちらか。感情を動かすことは楽しいけれど疲れる。

いつかわたしのみている世界をそのまま写せるようになりたい。もしわたしが世界の綺麗な部分しかみたくないなら綺麗なものばかり撮りたいし、世界なんてくそだと思うなら、くそだなぁと思うものばかり撮りたいし、どちらもあるならどちらも撮りたい。多分どちらも撮り続けるんだろうな。感情は一種類ではないし、矛盾も大切なもの。

あと、愛を写せるようになりたい。形ない愛も、形ある愛も、全部ぜんぶ写真におさめて忘れないようにしたい。その写真たちは2枚づつプリントして、1枚はその愛を渡してくれた人たちに渡したい。自己満足だけど、あなたからみてわたしはこう写ってるよ、あなたは素敵な人だよ、大好きだよって伝えたい。もう1枚は、寿命が尽きた時に葬式会場に飾ってほしい。誕生日会みたいにばーっと写真に囲まれた葬式にしてほしい。そして、棺桶に写真たちを全部いれて一緒に燃やしてほしい。

いつかこんな写真を撮りたいなんて言っててもしょうがないし、その時はその時しかない。たくさん撮るかぁ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?