阿波藍の技術移転-埼玉県
埼玉県(武蔵国)
延喜式(927年完成)によれば武蔵国や関東の国々でも調として藍・藍布糸が納められていますので、この頃には荘園・標野などで藍の栽培が行われていたと考えられます。染織技術の高い地域は古代より開けた土地が多く、自然環境に恵まれ古くから豪族や渡来人が住んでいたことが古墳や出土遺品などで窺い知れます。
徳川幕府は江戸に開かれましたが当時から畿内が先進地であり、生産拠点も流通も江戸時代後半になるまで近畿地方が主流であり続けました。関東の木綿生産は18世紀後半から19世紀以降の高機の導入により、限られた地域の農閑余業として展開していた綿業が、新たな綿織物の産地として足利・佐野・蕨・川越・所沢などで興こります。こうした綿業の発展にともない、関東でも地藍生産が成長します。藍作地帯は肥沃で物流に優れた荒川流域の川島・吉見・川越・所沢や、利根川流域の本庄・深谷・妻沼にかけて集まっています。利根川中流域の藍商人、葛飾郡西大輪村(埼玉県久喜市)白石家、樺沢郡下手計村(埼玉県深谷市)粟田家の史料により文化期(1804~)以降、天保期から嘉永期にかけて約3倍増となる急成長も確認できます。『江戸時代人づくり風土記・埼玉』(1995発刊)のなかで、樺沢郡中瀬村(深谷市)河田家の史料に栗原村(久喜市)の紺屋・藤右衛門のところに、病気により逗留した阿波の人から藍の葉の「寝かせ方」を習い、その技術を「下り寝せ」と呼んでこの地方で流行したと書かれています。葉藍の寝かせ方というのは、蒅の製造技術のことで時期はおよそ天明・寛政(1781–1801)ごろだと考えられています。
安政元年(1854)阿波藍の他国への総移出量は236,000俵で、幕末の阿波藍の江戸への移出の内訳は48,930俵、関東地藍(武蔵・上野・下野・上総・下総・常陸)は10,000俵となっています。明治初年の藍の生産統計では、阿波についで武蔵が有数の産地とされていて、興隆させようと県の農業指導員の指導のもと、明治23年には阿波藍を試植させ適地の研究もしています。葉藍作付面積は明治16年1,078町歩(ha)、20年代になると2,000町歩に、31年には3,120町歩の最高作付面積を記録しますが、40年には410町歩と衰退していきます。明治40年代に編纂された『織物資料』に記された武州織物の染色方法の変遷をみると、当初は天然染料による染色を基調としていましたが、20年前後になると外国染料(化学染料・インド藍)の導入へと変化していきます。
明治の社会・経済を牽引した渋沢栄一は樺沢郡血洗村(深谷市)の生まれで、家は藍の栽培と農家から藍葉の買付け、藍玉を製造し紺屋に販売をしていました。藍玉は高価でもありましたが、紺屋からの代金回収には長い時間を要し、原料の藍の仕入れには大量の資金が必要でした。良い藍を育てるには肥料として干鰯・〆粕の購入も必要です。質屋・金貸・養蚕・藍商人として品質管理と才覚を学び、渋沢栄一は商業的農業経営者としての合理的精神を家業から受継ぎました。
『草木六部耕種法』佐藤信淵
商品作物が盛んになると農業技術を記録・解説した『農業全書』宮崎安貞、『綿圃要務』大蔵永常などの農書が成立し、写本や木版印刷によって広く普及しました。全国各地の篤農家を尋ねる農学者や農業記者も現れ、その土地で行われている農業技術が記録されるようになります。佐藤信淵は文政12年(1829)に『草木六部耕種法』の中で有名な藍の産地を紹介し、「藍葉を作るには阿波国の作法学ぶべし」「藍を作るには阿波の国法を第一とし、筑後国久留米を第二とす」として栽培法・藍玉製法について記していますが、他にも藍玉に砂を混ぜる場合の「錆砂」を阿波では選んで使用していることなども記しています。
佐藤信淵は明和6年(1769)出羽国雄勝郡(秋田県)に生まれ、江戸に出てから儒学・国学・神道・本草学・蘭学・天文学を学んだそうです。諸国を遍歴し見聞した事も含め著書は極めて多様で、農学から国家経営におよび、極めて実際的なものから農政・物産・海防・兵学・天文・国学など広範に及びます。書誌学者・森銑三は「佐藤信淵の言説は虚構が多く、著書の刊行も明治になってからで、阿波に移住した事実もなく、蜂須賀家の公文書などあらゆる記録に載っていない」と云い、詐欺師扱いをしています。真相は私にはわかりません。当時阿波藩では、他国への藍関係の情報漏洩が厳重に監視された環境でした。その阿波に佐藤信淵が藩家老集堂氏の食客として、文化5年(1808)から阿波に一年近く滞在したと云われ、実際文化6年(1809)2月に名東郡鮎喰川原で大砲の試射をしたことが記録されています。江戸中期以降の徳島藩の藍栽培と製法は、他領・他国へ秘密が漏泄したときの規正制裁は厳重でした。『草木六部耕種法』の著作前に藍の製造法を視察していた、そして記述され紹介されていた、という特別な扱いがあったことに驚くばかりです。
著書が膨大で広範囲なこともあって佐藤信淵の評価は未だ定まっていませんが、展開された理論の中に農政経済論があり思想の動機は、国内の農村の貧困にあったことは事実だったと思います。国内を見聞した信淵には徳島藩に於いて農民による藍という商品作物の展開は、商品経済が発展し流通も拡大していく状況下に、諸藩の政策の思索となったのでしょうか。全国的な規模で封建制度を維持し領主経済の改革に、殖産興業政策の成果をあげ、窮乏を救済する手段を主張することが必要でした。
『草木六部耕種法』著作後の天保3年(1832)には武蔵国足立郡鹿手袋村(さいたま市南区)に住み、農園を持ち藍作を試みていたそうです。同年に『農政本論』を刊行します。
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https://www.japanblue.info/about-us/書籍-阿波藍のはなし-ー藍を通して見る日本史ー/
2018年10月に『阿波藍のはなし』–藍を通して見る日本史−を発行しました。阿波において600年という永い間、藍を独占することができた理由が知りたいと思い、藍の周辺の歴史や染織技術・文化を調べはじめた資料のまとめ集です。