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「ハーフ」と現代日本社会での位置づけ・個人の感想

Awa'Toriの使命は、アフリカと日本の間に存在するギャップを埋めることです。メディアが描く一方的なアフリカのイメージ、つまり貧困、危険、遠い、戦争に巻き込まれ、病気が蔓延しているというようなイメージに対抗するためです。アフリカのファッションやエンターテイメントを通じて世界的にクリエイティブ産業が成長しているだけでなく、日本社会でも混血の日本人の数が増えています。

このことは、私たちが既存のステレオタイプを超えてアフリカを受け入れ始めている希望の光かもしれません。未知の土地に境界を越え、異なる民族間で結婚し、その結果として新しい物語が生まれることを示しているのです。国によって異なる呼び方があり、日本では「ハーフ」と呼ばれています。

共同創設者の一人である清子・ンバコも「ハーフ」として、Awa'Toriが目指すものの体現者としての興味深い見解を共有しています。カメルーン人の父と日本人の母を持つ彼女は、「ハーフ」という言葉に対して懸念を抱いています。以前、清子を「半分カメルーン人で半分日本人」と呼んだ時には特に気にしていなかったのですが、清子が「私はどちらかの半分ではなく、両方の全体である」と説明してもらった時に考えが変わりました。「『ハーフ』という言葉自体が、あなたは完全に私たちのものではないという意味を含んでいる」と清子は付け加えました。これは微妙な形の差別と見なされることもあります。このことから考えさせられました。複数の国にルーツを持つ人々は、各国の完全たる人間の1人と見なされるべきではないでしょうか?なぜ部分的にしか認められないのでしょうか?

日本では、「ハーフ」が社会への貢献度に基づいて受け入れられたり拒絶されたりする状況が数えきれないほどあります。成功すれば受け入れられ、失敗すれば部外者と見なされるのです。しかし、これは本当に公平なアプローチでしょうか?バイレイシャルではない人がAwa'Toriの活動を同じように行えるかと尋ねられた時、清子の答えは驚くべきものでした。「もちろんです!違いは視点や経験だけです。情熱さえあれば、誰でも私のように活動できるでしょう」と清子は答えました。

民族的な背景に関わらず、あらゆる国への貢献の有無はその人間のルーツやアイデンティティを定めるものではありません。外見や名前、成果以上に深いものです。あなたはどう思いますか?このトピックについての考えを教えてください。


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