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田川賢吾を追いたい理由

田川賢吾の進路が決まった。社会人野球の名門、日立製作所で野球を続ける。

三連休の初日、在宅夜勤でぼーっとした頭に入ってきたこのニュースは、引継ぎで出勤しなければならなかった土曜の朝の目覚まし時計代わりになった。年が明けてからのヤクルトは、1日1ニュース、何やかや流れてくる。

田川は2012年ドラフトで、1位・石山泰稚、2位・小川泰弘(ライアン小川)に次ぐ3位で入団した。この年、高卒ルーキーは田川ひとり。同級生のいない社会人生活の出発は、心細くはなかったか。

田川は、自由契約となる前年、2019年9月15日、広島戦でプロ初勝利を挙げた。入団から、7年の月日が経っていた。田川の投げる姿はたくさん見てきたように思う。「これが初勝利だったか」と、驚いた。

ズムスタの初勝利をテレビ観戦し、敵地ならではの場内に響かないヒーローインタビューを見て、入団から7年という月日の重さに胸が締めつけられていた。

田川賢吾を最後に見たのは、2020年11月1日。ファイターズ鎌ヶ谷スタジアムで行われたイースタン・リーグ最終戦だった。
クローザーとして9回裏に登板した田川は、ファイターズ打線を抑えセーブ記録がついた。ヤクルトの勝利で最終戦を終え、田川はホッとしたように笑顔を見せた。

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2020年の一軍登板はなかった。私はいつも、前年の初勝利が頭にあった。ずっと待って、待って待って、一軍初勝利まで育てた田川を一軍に上げなかった。どんな理由があるのか、私には分からなかった。

田川は一度、支配下登録から外れている。しかし、1年で再び支配下登録された。三桁の背番号を背負ったのは、2017年の1シーズンのみだった。
入団2年目、椎間板ヘルニアの手術で長期離脱したこともある。

それでもヤクルト球団は、田川の手を放さず、7年目の初勝利まで導いた。

それほどまでして大切に育てた田川の手を、そう簡単に離すはずがない。そう自分を宥め、こうしてファームで投げ続ける田川に、内心焦りながら、希望をつないでいた。

ファーム最終戦の翌日、田川は自由契約になった。

私の手元には、田川賢吾初勝利の記念Tシャツがある。もったいなくて、着ていない。でもこのTシャツは、過去の栄光なんかじゃない。入団からずっと見つめ続けた、田川賢吾という野球選手の足跡だ。

ヤクルト球団が大切に育てた、田川賢吾の8年間。大切な、大切な、人だった。だからこれからも、その足跡を辿っていきたいのだ。その道は、田川自身もどこにつながるか知らない。未来のことなど、誰にだって分からない。そんなとき、ともに闘う仲間でいたい。

それが、私が田川賢吾を追いたい理由だ。

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早速調べてしまったよ、日立製作所の野球場を。車で高速を飛ばせばすぐ着くけれど、こんな世の中になってしまったから、見学はできないのかな。
職場の近くにも、社会人野球の野球部の本拠地があるから、練習試合で来ることもあるかもね。違うユニフォームだけれども、早く投げている姿を見たいです。
都市対抗野球は、昨年観戦デビューしたよ。高橋佑樹を撮ったんだ。日立製作所野球部のご活躍を祈念いたします。そのマウンドには、必ずあなたがいるからね。

あとさ。

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結婚してるの、知らなかったんだけどイケメンくん!笑
1年経ってはいますが、おめでとうございます。穏やかで、明るい家庭を築いてください。

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