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「ここに居ていい」今、私が神宮でできること

私の神宮球場日参物語

神宮球場へ通い始めて、今年で33年目のシーズンを迎える。徹夜で並んだ日もあれば、一度も足を運べなかった年もある。
親の同伴なしに都内まで出られるようになったのは、高校生になってから。おこづかいの範囲内で、部活終わりに思い立って電車を乗り継ぐ。緑のビニール傘は、学校に「置き傘」していた。最寄り駅まで徒歩30分かかる高校を出発し、信濃町駅に到着するまで、1時間半はかかった。

当日券は、内野自由席のみ。平日の、万年Bクラスの球場で、チケットが完売していたことはなかった。
大抵、プレイボール後の到着だった。今と違って空席の目立つ球場に入れば、ライトスタンドはラッパと声燕(援)で盛り上がっている。
内野席でも、傘は振っていた。それでもやはり、4分の1周離れた外野席の風景は、いつもキラキラと輝いて見えた。

「いつかは私も、あそこで応援したい」

そんな夢は、高校を卒業してから、親友が叶えてくれてた。

Sは、小学校からの親友だ。中学から別々の進路を歩んだが、学年で3人しかいなかったヤクルトファンという絆で、ずっとつながっていた。
Sはいつも、Sの高校時代の仲間7人で、外野自由席を狙って徹夜で並ぶほど神宮に通い詰めていた。あの、野村克也監督が「おまえ、いつもいるな」と声をかけてくれたこともあるそうだ。
高校卒業後の私の進学先が、とても忙しい学校であることを知っていたSは、いつも私の分のチケットも買ってくれ、私は楽をしてライトスタンドのFブロック最前列に陣取ることができた。本当に、感謝しかない。

私と岡田団長の出会い

通路が真ん前にあるその席は、応燕(援)の最前線。そしてそこには、あの有名人がいつもいた。

岡田正泰。ヤクルトスワローズ私設応援団『ツバメ軍団』の団長だ。

アニメの『がんばれ!!タブチくん!!』に登場する人という認識だった私は、二次元でない岡田団長を、不思議な気持ちで見ていた。
「本当に、実在する人物なんだ」
アニメどおりの、気風のいい江戸っ子のオヤジさんだった。

「誰でも歌えるから」と、応燕(援)に『東京音頭』を取り入れ、「少ない客でも多く見えるように」と、『傘応燕』を編み出した、まさに「ヤクルトの応燕スタイル」の起源となった人だ。
そのパフォーマンスは選手も知るところとなり、選手からもとても慕われていた。
昨季のおうち時間にフジテレビoneで放送された「燕軍団のキセキ」では、78年のヤクルト初優勝で、花束を持って泣くグラウンドの岡田団長が映し出された。彼をグラウンドに降ろしたのは、当時の主砲、大杉勝男だった。
池山隆寛二軍監督は、2002年の自身の引退スピーチで「岡田のオヤジ、ありがとう!」とライトスタンドに向かって声をかけた。岡田団長は、3か月前に亡くなっていた。しかしあの時、池山隆寛は、たしかにライトスタンドにいた岡田のオヤジにお礼を言った。皆、泣いた。
ヤクルトの歴史に刻まれている人。それが、岡田正泰という人だ。

神宮が「ここに居ていい」場所になった日

岡田団長の元には、「ニッカンスポーツの野崎さん」が度々訪れていた。野崎靖博。日刊スポーツの編集委員だ。
野崎さんは、顔の知れた有名人だった。テレビ朝日『ニュースステーション』で、木曜のスポーツコーナーを担当していた野崎さんもまた、週1回テレビで見る二次元の人だった。
司会の久米宏さんは毎週、「ニッカンスポーツの野崎さんです」と紹介した。だから、野崎さんが神宮のライトスタンドに現れると、「ニッカンスポーツの野崎さんだ」「ニッカンスポーツの野崎さんだ」のさざ波が起こった。笑

ある日のライトスタンド。また「ニッカンスポーツの野崎さんだ」の日。
岡田団長が、野崎さんに話しかける。すぐ隣に立っているのに、応燕の声量そのままに話しかけるもんだから、すぐ近くにいる私たちにも丸聞こえだった。

「ほら、見てよ!これ。女ばっかだよ!」

たしかに、Fブロック最前列は、私たち女8人が陣取っている。私たちだけでなく、全体に女性も多く、明るい雰囲気だった。
80年代後半、池山隆寛、栗山英樹、広沢克己といった若手が成長し、88年に長嶋一茂というきらびやかなスター選手が入団したことで、マスコミに取り上げられることが増えていった。「あいつの隣にいればテレビに映れる!」と、一茂と常に一緒に行動し、面白いことを言って周囲を笑わせる芸達者な池山・広沢の“イケトラコンビ”の影響で、女性ファンも増えていった。

長く神宮とヤクルトの歴史を見てきた岡田団長にとって、この神宮のスタンドの風景は急激な変化だったかもしれない。そんな嘆きの声。かと思いきや、そのあとに続いた言葉は。

「だらしねぇんだよ、男どもが。ほら!男!声出せ!女も!声出せ!みんな声出せ!」

アラフィフになった今、分かることがある。もしここで、

「野球も知らない女どもが」

という言葉が続いていたら、私は今、神宮には通えていないと思う。当時ヤクルトファン歴10年。当然、女子の中では、野球の知識はある方に属していた。しかし、野球選手は皆、男。私自身、野球をしたこともない。「所詮おんなこども」でしかなかった。

それでも岡田団長は、女という理由で私を排除しなかった。女子の存在感に圧され気味の男性諸君を鼓舞し、女も男も声を出せと先導した。
声を出して応援しろ!私が言われたことは、それだけだった。

私は、声を出して応燕した。小さいころから声は大きかった。だから、声を張り上げて応燕することはたやすいことだった。点が入れば、傘を振って東京音頭を歌った。
92年日本シリーズ第1戦、杉浦享の代打サヨナラ満塁ホームランの狂喜乱舞も共に過ごした。
私が、東京音頭も、5回裏の神宮花火も、赤いピンストライプのユニフォームも、段差の違う階段も、学生野球で試合開始が遅れることも、全部全部大好きなのは、あの時、私を神宮という楽しい場所にいさせてくれた人がいたからだと、そう言い切ることができる。晴れた日に、ビニール傘を持って通う神宮が、私の人生のいつもそばにいた。

今、私が神宮でできること

私は今、カメラ女子(女子です!)となり、神宮に日参している。
撮影方法は要領を得てきた。30センチのバズーカレンズで人の視界を妨げないよう、体を半分ひねり、座る位置を斜めにしてレンズを左右に振る。
コロナ禍で両隣の空いた昨季の観戦は、その左右の空間に正直助けられた。人の少ない、声のない野球場は物足りなかったが、カメラ女子にとっては快適な環境だった。

自席ではなく、通路や球場正面など球場の内外を撮影するときもまた、お邪魔な存在なのがカメラ女子だ。
しかし神宮では、歩いている人たちが、私の撮影が終わるまで立ち止まってくれたり、腰をかがめて通ったりと、私に最大限の配慮をしてくれる。
プロのカメラマンでもない、ただのおばさんの撮影なのに、誰も「じゃまだ」「どけ」とは言ってこないのだ。

ただ神宮で同じ時間を過ごすだけの他人に、ここまでの行動をしてくれる人たちがいる。
カメラ女子を排除せず、神宮にいさせてくれる。これほどありがたいことがあるだろうか。

私は、いつも見ているスポーツマンに倣って、清々しく、元気にお礼を言う。
「ありがとうございました!」
待ってくれた人たちは、軽く会釈をして通り過ぎる。
その姿が、あの日の岡田団長と重なる。まるで、岡田団長が「ここに居ていい」と言ってくれているようだ。私はいつも神宮で、そう感じている。

岡田団長と言葉を交わしたことはない。岡田団長は、私のことを知らない。
それでも私は、あのとき私の居場所をつくってくれた岡田団長の恩に報いたい。
岡田団長が遺した、誰しもが「ここに居ていい」神宮の景色を途絶えさせないために、たくさんの感謝と笑顔で、その神宮の景色になりたい。

開幕まで、1か月を切りました。春季キャンプも本日打ち上げ。
新たなシーズンが始まります。さぁ、ともに闘おう。

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