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時に言葉はナイフ

 友人や知人にかけられた温かい言葉や慰めの言葉をまるで贈り物のように大切にいつまでもしまっていて思い出すことがある。
 言葉自体には何も罪も悪意も含んでいなくても、使い手によって同じ言葉が変容し武器になることも、悲しいが現実にはある。
 Twitterでは日常茶飯事に見られている世界。Twitterの場合、どちらかと云うと一つの言葉或いは一人の言葉が発信する力には限度がありながらも、大勢の同意を得ることで仮の力を得る。誤解を含みながら違うベクトルへと進行し始めた時は発信者のコントロールは効かなくなるリスクを伴うことを忘れてはならない。言葉が独り歩きする怖さだ。

 今回も煽り運転絡みでいい大人それも公的な立場の市議が誤発信をし訴えられている。
 あなたは其処にいましたか?その人と会って話しましたか?こんな簡単な確認事項を踏むことができない人々。
 Twitterという魔法の粉でもかけられたのか。
 少なくとも多くの記者たちは、自身の目で確認し、当事者に会い話を聞いている。それでも、その記事を100%信用できないのは、そこに記者の主観というバイアスがかかっているからだ。だから、同じ事件でも一つの記事で全てを知ることは出来ず幾つもの記事にあたる。

 言葉というナイフを放った人は、そのナイフが相手にどれ程深く刺さり傷つけたのかを知ろうとしない。形あるナイフではない為にその傷口からは血は流れない。けれども、こころに刺さったナイフの傷の痛みを受けた側は覚えている。

 通話には、まだ、(声に)温度も表情もある。
 けれども、LINEをはじめテキストでの交信は互いの表情も見えないまま、その状況もわからないまま一方的に送信することを念頭に置き、利用に限界があることを知る必要がある。万能の機器ではない
 
 

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