形に込められたもの 形式と形骸化
昨日上げた旅行記の中でカトリック教徒にしか意味が届かない聖水について説明をしてしまった。この先カトリック教会を訪ねることがあっても洗礼を受けていない一般観光客には無縁のものではあるが、それでもそこにある意味を知っていることは無駄ではないだろうと考えてだった。
その際に、幼い頃の私はどうだっただろうか、とふと考えてた。
おそらく親に入堂の際の手ほどきを受け、おとながする通りの真似をしていた筈だ。幼いながらも流石に聖水が大切な意味は知っていても、そこにある宗教的な意味までは理解できていない。
ごミサの中で神父様が聖杯をしまわれる一連のそれも普遍の流れが、茶道のように見える。全く洋の東西、違う文化圏であるにも拘わらずだ。
茶道にも多くの意味ある作法がある。
茶碗が置かれているその位置は畳の縁を境界として、茶席共有空間と縁から手前の個人空間。上の写真は、まだ手前の個人空間へは入っていない。
茶室へ入る際に、もし自身が入室最後の一人だった場合は敢えて襖が閉まる音を立て中へ入る。
もし、このことを「最後の人は音を立てる」と、動作だけを覚え込んでしまってはおそらく場に不似合いな大きな音が出現しそう。
「私が最後の一人です、どうぞお始めください。」の意味を込めているのであれば、サインとして適切な挨拶にも似た静かな音がそこに生まれることだろう。
形から入る「道」が付く習い事がある。その形は意味あって伝え続けられ、時の長さの中で洗練されされていく。その内に無駄がそぎ落とされた形式は意味を問われることも少なくなる。良い意味で残った場合は形式であろうし、意味が死んでしまった時は形骸化と呼ばれるのだろう。
形あるものが持つ美しさの意味を時には辿りたい。
*写真は以前noteでも紹介した京都へ行った際、有斐斎弘道館を訪れた時のもの。
遊び心ある茶器は回し過ぎてしまい正面に穴の部分が来てしまうとそこから茶がこぼれる。まさか、そこまで回す人も人も居ないだろうが、茶をいただいた後に現れるカニの絵も含めて楽しい意匠。
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