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「悪は存在しない」

監督:濱口竜介
制作国:日本
製作年・上映時間:2023年 106min 
キャスト:大美賀均、西川玲、小坂竜士、渋谷采郁

 冒頭から前半は長野の自然が都会とは違う時間の流れを表現するかのような音楽を纏い、或いは時にその音を纏い捨てながら十分に描かれていく。
 監督のインタビューでは、監督前作品である「ドライブ・マイ・カー」(2021年)において音楽を担当していた石橋英子氏からライブパフォーマンスのため(監督に)映像制作を依頼がこの作品の始まりだそう。
 その映像を撮影絡みで足を踏み入れた自然の中で「(ここには)悪は存在しない」というフレーズがふと浮かんだと監督は発言されている。

冒頭シーン

 「長野県、水挽町(みずびきちょう)。自然が豊かな高原に位置し、東京からも近く、移住者は増加傾向でごく緩やかに発展している。代々そこで暮らす巧(大美賀均)とその娘・花(西川玲)の暮らしは、水を汲み、薪を割るような、自然に囲まれた慎ましいものだ。しかしある日、彼らの住む近くにグランピング場を作る計画が持ち上がる。コロナ禍のあおりを受けた芸能事務所が政府からの補助金を得て計画したものだったが、森の環境や町の水源を汚しかねないずさんな計画に町内は動揺し、その余波は巧たちの生活にも及んでいく。」*公式H.P.より

 上の写真は父の巧が娘花と森を歩きながら松の種類を教えていくシーン。
 同じ風景を見ても、必ずしもその絵の構成は同じように認知される保証はなく人の数だけ違いが生じるだろう。例えば、樹木に興味がなく単に森だけを捉える人、いや、その森さえ認識せずその色の緑で完結する人など。この作品では、都会から入り込んで来た住民説得役の二人には森の構成要素の違いなど意識もしていない筈だ。ある人からは見えても、もう一人には見えない世界。
 子から見ると単に樹皮の色が違う松に過ぎなくても、そこには個々に名があり特性も違う。その差異が全ての人に必要とされている訳でないが、人によっては知るべきことかもしれない。これは後半に結び付くのか。
 少なくとも、森が生活の一部である花は植生だけではなく、動物の生態も含めて自然と共存するルールを一つでも多く知るべきだった、必要があった。おとなが教える責任があった。

 元々、人が存在しない自然があった。その中に開拓者として人間が入っていく。決して都会の人だけが自然を壊しているのではない。只、物言えぬ自然を相手にそれでも会話しながら生活する住人と自然と会話することさえ知らない開発者との差。
 作品の中ではそうした決定的な物事ではなく、考え方で変わる物事の側面や思い込みが描写される。

 プロレスを知らない私はスリーパーホールドなど知らず、あの場面では気絶なのかそれ以上のことが起こったのか不安が残った。鑑賞後友人からあれは気絶だろうことを知らされる。
 巧がこの先(あの後)どのように行動するのかは解釈は様々。*いつものようにネタバレは避けます

 そもそも監督自身が「そんな難しいことはありません。何が起きたかということはかなり明らかなので、恐らく疑問の余地はないんで、なぜそれが起きたかということを考えたい人は考えたらいい、それだけです。」とインタビューで答えている。

 解釈は様々と監督がおっしゃるのであれば、映画オッペンハイマーの時も解釈が溢れたが、今回もしたり顔の解釈の必然はなかったよう。
 現代文の試験内容に原作者が正解を書けないような展開に似ている。

 只、個人的に残念だったのは、意外とリアリティが無く私は没入感までにはならなかった。些細なことでは彼の車は水を運ぶ仕事に適しているように見えないし、そもそも彼の仕事で得るだろう収入と車が合わない。それとも実は仕事用の軽トラが他にあったのでしょうか。詳細が欲しい訳ではないが、そうした描写一つ一つがジグソーパズルのピースとして嵌っていきながら作品の輪郭が明確になっていく。そういう類は不要というのであれば、私にはこの作品は合わなかった。

★★☆

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