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2023/06/11 軽さと重さと対称性

前書き。
久しぶり~。


本題。
ずっと右脳的なインプットとアウトプットを繰り返していたんですが、そのせいで左脳的な部分を大分放棄というか厭ってきたので、ちょっとだけ文章書こうかなと。

なんというか思ったより進んでいるんですが、右脳的アプローチと左脳的アプローチというのはどうも入口が違うようで、右脳的アプローチはなんか『軽さ』というのが少しテーマになりそうだなと思っています。その軽さというのがなんなのかというのは言ってしまえば抽象的である度合いのようなものなのですが、抽象化に際して失われた部分になにかしらが入り込むような感覚をなんとなく軽さということばで表現したいような気がします。つまり重い鞄から中身を取り出して軽くしたとして、それを喪失とばかり呼ぶのも変な気がして、鞄を形容するときに、重い鞄と軽い鞄という言い方はしても中身の詰まった鞄と中身の空いた鞄という言い方は、ある程度恣意的なニュアンスが含まれて少し躊躇いがあるかなと言う感じです、伝わるか分からないけど。

反して今までの、と言うにはもう結構時間が経ちましたが、左脳的アプローチではむしろ『重さ』を重視したシステムとして扱うことが多かったように思います。例えば今重視という言葉を使ったように。

ただここで勘違いしてはいけないと思うのは、軽さと重さというものが逆であるという考えはおそらく早計であるということです。言葉が表現するようにそこには確かに対称性があるように思ってもよいと感じていますが、対称性と言うのは必ずしも反対のものとして存在したり、表現したりするものではなく、根本的にはむしろ同じものを別の視点で表したものであると思います。数字のプラスとマイナスは対称的でありますが、その対称というのはプラスとマイナスの関係全体を指して言うのであって、例えば1の反対には‐1があるというのは、つまり‐1の反対に1があるというのと同義であるということです。1と‐1が逆の存在であるというのは議論を詰めていけば対称性を表すものとしてかなり本質とはずれた言い方になると思います。

なぜ右脳と左脳でこのような違いが起こるのかと少し考えてみましたが、言葉というのは元より抽象度の高いメディアであることが原因な気がします。つまり元が『軽い』ので、『重さ』というのが目立って思考の中心になりやすいということです。あえて逆にという言葉を使いますが、逆に視覚の情報に起因するような右脳的メディア、例えば絵などは元の情報の抽象度が低く、よって『重い』ものに対して、『軽さ』というのが中心になりやすいと思います。伝わるのかなこれ。

さらに言えば、今自分が軽い、重いと表したものに対して、軽い重いという言葉を入れ換えても同様に成り立つと思います。対称性の破れ(物理でよく見る言葉ですが、破れと言うのは非常に良いと思います)というのがどこかしらで起こりうるとは思うので、それには注意しつつ、また進めていきたいと思います。


左脳の間隔を保持しながら文章書くのすごく大変、いっそ全部捨てて切り替えるみたいな訓練をした方が進みいいような気も。

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