ロマノフ僭称者について
ロマノフ僭称者とはボリシェヴィキによる処刑から逃れ生き延びたロマノフ家の一員であると主張した人々のことである。
アナスタシアの詐称者
アンナ・アンダーソン(Anna Anderson)
恐らくアナスタシアを詐称した人物では一番有名だろう。Hoi4のポーランドの隠しルートで登場するなど大衆文化(?)にも浸透している。
アンナは1920年に自らをアナスタシアだと主張し始めた。しかし詐称を繰り返していくうちに本当に自らがアナスタシアだという虚偽記憶のようなものを形成してしてしまった(と言われている)
しかしアンナは帝室の関係者でしか知らなかったような情報をなぜか知っており、そして身体的特徴もアナスタシアに酷似するものがあった(特異な外反母趾)。なによりも「赤の他人を説得することができる才能」の持ち主だった彼女は多くの支持者を得たのだ。
…ただアンナはロシア語が話せなかった。そしてアナスタシア本人が苦手だったはずのドイツ語を話す、記憶が肝心なところであやふやになる、顔が違う(なぜ気づけなかったのか)など矛盾が生じ始める。
ところが彼女には支援者が残った。ロシア帝室主治医のエフゲニー・ボトキンの息子、グレブ・ボトキン、姉のタチアナだ。非常に根強い支持者で後にアンナは彼らの援助でアメリカに定住し1984年に死去した。
彼女の正体は1920年3月に失踪したポーランド人農家の娘、フランツィスカ・シャンツコフスカと言われている。
出稼ぎ労働者としてベルリンの爆弾工場で働いていたものの手榴弾を落としてしまい事故で重傷を負ってしまった。その後彼女は精神的に不安定になり消息を絶った。
ユージニア・スミス(Eugenia Smith)
彼女の正体は1899年にオーストリア=ハンガリー帝国時代のブコヴィナで生まれた人物である(ユージニアは1901年6月18日にサンクトペテルブルクで生まれたと主張した)
エレオノラ・クルーガー(Eleonora Ktuger)
彼女は自らをアナスタシアと主張したことはないのだが、ブルガリアの元上級判事ブラゴイ・エマヌイロフによってアナスタシアなのではないかと推測された。
ナタリア・ビリホッツェ(Natalya Bilikhodze)
ナタリアは1995年からアナスタシアという名前を使い始め、アナスタシアはジョージアに逃亡し後に結婚したと主張した。
この主張は2002年6月にモスクワで行われた記者会見で発表された。
(2001年1月、中央臨床病院の専門家委員会はビリホッツェの遺体から採取した細胞を調査し、彼女はロマノフ家とは無関係であると結論づけた)
ナデダ・バジライバ(Nadezhda Vasilyeva)
1920年、中国へ渡航しようとしていたナデダはシベリアで初めて姿を現した。ボリシェヴィキ政府によって逮捕され様々な収容所に投獄された。
ナデダはジョージ5世にフランス語とドイツ語で「いとこのアナスタシアを助けてくれるよう頼む手紙を送った(ニコライ2世にとってジョージ5世は従兄だった)
ある時彼女はリガの商人の娘だと主張し始めたがその後またアナスタシアだと主張を変えた
グラニー・アリーナ(Granny Alina)
ガブリエル・ルイ・デュヴァルによる2004年の著書『A Princess in the Family』の中で(養祖母である)アリーナが自分はアナスタシア王女であり救出されたと彼に語った(しかし彼女はマリア・ニコラエヴナの年老いた姿に似ている)
アレクセイの詐称者
ヴァシーリー・フィラトフ(Vasily Filatov)
1988年、亡くなる直前に自身がアレクセイであると主張した。
ユージン・ニコライエヴィチ・イヴァノフ(Eugene Nicolaevich Ivanoff)
恐らく最初にアレクセイだと主張した僭称者でありヨーロッパやアメリカの新聞で本格的な宣伝を行った初めてのロマノフ僭称者である。(発表自体は1927年に行った)
ゲオルゲ・ジュディン(George Zhudin)
先述したエレオノラ・クルーガーと共に暮らしていた人物であり1930年にブルガリアで死亡した。
アレクサンドル・サヴィン(Alexander Savin)
アレクセイを自称し1928年にOGPU(ロシア秘密警察)に逮捕された。
ハイノ・タメット(Heino Tammet)
カナダに移住したエストニア人であり68歳の頃から自身をアレクセイだと主張。アレクセイ・タメット・ロマノフを自称した。
タメットの主張を擁護しているのは彼の三番目の妻であるサンドラとバンクーバーのジャーナリスト、ジョン・ケンドリックの2人だけである。
ミハイル・ゴレニエフスキ(Michael Goleniewski)
アメリカのCIAに一時期協力していたポーランド人。西ベルリンの大使館に政治亡命をした際に自身をアレクセイだと自称した。
マイケル・グレイ(Micharl Gray)
著書『Blood Relative』の中で皇太后と共に1919年に脱出し後にニコライ・チェボタレフを名乗った。そして自身がロシア皇太子とケント公爵夫人マリナの息子で40年代後半に密かに結婚したと主張している。
オリガ大公女、タチアナ大公女、マリア大公女の詐称者
マルガ・ブーツ(Marga Boodts)
エカテリンブルクでは銃殺体の一員であったディミトリ・Kが彼女を殴り倒して意識を失わせ死んだふりをさせた。そしてディミトリは皇族の死体を盗んで捕まった若い女性の死体と入れ替えた。その後彼女と共にウラジオストクに向かいドイツの特殊部隊に迎えられ、中国を経由し海路でドイツに連れていかれたと主張した。
1940年代の終わりにイタリアでオリガであると宣言(実は二度目でありフランスで同じことを試みたのだが非難され失敗に終わった)
オリガのいとこにあたるジギスムント・フォン・プロイセンは彼女をオリガ本人であると確信するなど成功した唯一のケースと言えるだろう。
ラリッサ・テューダー(Larissa Tudor)
彼女の死後、近所の人によってタチアナであると主張された。身体的特徴など彼女に関する入手可能な情報の不規則性が相まってこのような説が唱えられた。
セクラヴァ・チャプスカ(Ceclava Czapska)
アレクシス・ブリマイヤー(Alexis Brimeyer)が祖母のセクラヴァがマリアであると主張した(本人も主張していた)。アレクシスはヨーロッパの様々な王位とのつながりを主張した人物であり彼と彼の仲間が作った騎士団を通じて偽の貴族の称号を販売していた。
マデス・アイオルト(Maddess Aiort)
1937年にカナダに現れ自身がタチアナであると名乗った。しかしどうやって処刑を逃れたのかは説明されていない。
ミシェル・アンシュ(Michelle Anches)
タチアナであると主張していたものの1929年にパリで暗殺された。
その他の詐称者
アナトリー・イオノフ(Anatoly Ionov)
アナスタシアの息子であると主張したロシア人。自分が正当な皇太子であると主張、ウラジーミル・プーチンに手紙を送り、母と妹を皇帝の墓所に埋葬するよう要求した(返事はなかった)。
スザンナ・キャサリーナ・デ・グラフ(Suzanna Catharina de Graaff)
ニコライ2世とアレクサンドラ皇后との間に生まれた第五の皇女であると主張したオランダ人で、その主張はアナスタシアの詐称者であるアンナ・アンダーソンによって認められている。想像妊娠だと報告されている1903年に生まれたと主張しているものの、アレクサンドラがそのころに出産した記録は残されていない。
妹であるアドリアナ・へメスはロマノフ家から口止め料を払ったと彼女に語った話もあるのだが、彼女の主張を後に完全に偽りであると否定し晩年は疎遠になった。
ミハイル・ロマノフ(Michael Romanoff)
本名はハリー・F・ガーガソンでリトアニア生まれだが、1971年に亡くなるまでの数十年間ニコライ2世の甥であると主張していた。映画ではロマノフ王子を演じることもありハリウッドではそこそこ有名人でロマノフズ・レストランを経営していた。
ケイティ・ピーターソン(Caty Petersen)
祖母がアナスタシアであると主張するフィリピン人。祖母はタシアという名前であり、1919年にマニラに到着しマリアとアレクセイという兄弟がいたと主張した。
参考文献
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