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赤の他人

私は、彼女の知り合いではなかった。
そしてこれからも知り合いにはならない。

私はいくつもあるアカウントのうちひとつのタイムライン上で、常々彼女の思索を追っていた。
相互ではなかったけれど、いいねや、リツイートをされたこともあった。
優秀な彼女の御眼鏡にかなうツイートだったのだと、嬉しかった。
つまり、ただの一方的なファンだった。

悔しくなるくらい、良い文章を書く人だった。
そうなりたいと思った。
似たような領域で、さらに同じような精神的な苦しみと闘っている人だったので、いつの間にか自分自身を重ね合わせていたのかもしれない。

その日、私は自分の2つ目のアカウントのタイムラインを眺めていた時に、ここにも彼女の言葉が流れてきてほしいと思った。
そして、彼女のアカウントをフォローしにいった。
私の2つ目のアカウントでの昨今の思索を、彼女は目に留めてくれるのではないか。
もしかしたら、もっと交流ができるようになるのではないか。
3年前、初めて彼女をフォローした時よりも私はずっと真面目なことを考えるようになったし、それを発信しているこっちのアカウントなら、と淡い希望を持った。

検索から彼女のアカウントに辿り着き、最新のツイートが目に入る。


「夫です。昨晩〇〇は公園で亡くなっている状態で発見されました。」


2時間前だった。
なんでこのタイミングなんだ、と思った。
ただそう思った。
そこに感情はなかった。

‘事実’が報告されているだけだった。
そこに旦那さんの感情はなかった。
もちろん、彼女の感情も。
それが、私に感情を持つことを許さなかった。

体がこわばっていた。
発見された、ということは、ひとりだったんだろうな。
ここ数日季節外れの寒さが続いている。
意志だったのだろうか、それとも。

家に帰りたくなくて深夜の公園で一人立ち尽くしているくらいだから、知っている。
夜の公園は、さびしいところだ。
一瞬、自分がどこにいるのかわからなくなった。
私はいま自宅にいて、確かに生きている。

私は彼女と同じ経験をしたわけではないが、きっと彼女とスペクトラムだ。
コントロールしきれない希死念慮におそわれて、その度に偶然色々なものに引き止められて、幸か不幸か、今もこうして文章を書いている。
だから、その偶然が少しでもずれたら。

そうなるかもしれないと怖くなった。
普段死にたい気持ちでいっぱいになっても、何だかんだ死ぬことはなかった。
でもそんなの、明日もそうであることの理由にはならない。
彼女は私にそのことを教えた。


また別に、通話で話をしたことがある知人が、急に投稿をやめてしまったことがある。
知人の知人として、知り合ってすぐのことだった。
彼も兼ねてより、病気や環境によって死を望まざるを得ないことが多かった。
オーバードーズを繰り返していた。
それでも人は全然死なない、ということを示しているかのようだった。
私は感覚が麻痺した。
彼の日常は、ずっとそのまま続くものだと思っていた。

ある日、彼は、飲んだ大量の薬をツイートしたきり、音沙汰がなくなってしまった。
それだけのことだ。

私が邪推しているだけかもしれない。
急にSNSに嫌気が差して、ただどこかで幸せに生きているだけかもしれない。
そうであってほしい。
そう願う余地を残していることが、彼なりの優しさなのかもしれない。

私は彼の投稿の通知を全てオンにした。
戻ってきたときに、この前の話の続きをするために。



私は彼女のアカウントをミュートした。
よくわからないけど、見たくなかった。

たまたま彼女のことを思い出した時に投稿を見て知ったことも、彼女が呼んだんだ、と思うかもしれないけど、そんなはずはない。
だって私は赤の他人だから。

最近見ないけどどうしたんだろう、忙しいのかな、と思う余地が欲しかった。
理由をつけるなら、こうだろうか。



私は、彼女の知り合いではなかった。
  ——赤の他人なのに、どうしてこんなに悲しいんだろう。
そしてこれからも知り合いにはならない。
  ——知り合いではない私に、悲しむ権利はありますか?



ご冥福をお祈りします。

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