童謡をまちに響かせる
童謡が好きだ。
聴くのも、うたうのも好きだ。
とはいえ、童謡をイヤホンで聴くかというと、そうではない。
大人にもなって童謡か、と言われても無理ないが、それでも童謡が好きだ。
幼い頃に幼稚園で歌ったからとか、テレビで流れていたとか、それももちろんあるし、通っていた学校柄、そういった曲に触れる機会も少なくなかった。
ただ、はっきり言える。
大人になってからのほうが好きなのだ。
もちろんノスタルジックな気持ちになれるからというのもある。
でも童謡を聴きにいくのではなく、耳に入ってくる童謡が好きだし、うたうことの方が好きなのだ。
もういつからだったか、明確なタイミングは覚えていないが、きっかけは思い出せる。
私の通っていた小学校は海のすぐそばにあり、ひと学年にひとクラスしかない少人数の学校だった。
にも関わらず、昭和期に生徒数が多かった名残で、だだっ広い校庭を有していた。
どれだけ多くの子どもがかけ回っても余るくらいの広さがあった。
音楽室の窓が大きくて、そこから広い海を見渡しながらうたうのがとても好きだった。
思い返すと、のびのび育てる環境だった。
私は学校のチャイムが好きだった。
よくあるキーンコーンカーンコーンという短い鐘の音ではなくて、14小節からなるメロディのチャイムだった。
それがとてもきれいで、だだっ広い校庭と、がらんとした教室と、なにも遮るものがない空と、海と、小さな町に響き渡るチャイムが好きだった。
そこに存在するすべてに少しずつ余白があって、そこに音ひとつひとつが静かに吸い込まれていく感じがした。
晴れている日ももちろんだが、なぜかいつも思い出すのは曇りで、色がなく、全体的にぼんやり白みがかった日のことだ。
思い出すたびにひんやりつめたく、けれどじんわりあたたかくなるような、宝物のような記憶だ。
小学校4年生のとき、他校から転任してきた意地悪な先生が担任になった。
その先生は着任してすぐ、「こんなに長いチャイムだからこの学校の生徒はダラダラしているのだ。もっときびきびさせるため一般的なチャイムにしろ」と苦言を呈してきた。
その言葉が、私はたまらなく悲しかった。
どうしてこんなにきれいなチャイムを、このチャイムが鳴り響く時間を、そんな軽々しく、私たちから取り上げることができるんだろう。
その先生はそれ以降も、それまで優しい先生たちが大事にしてくれた、私たちの特色をひとつひとつ、じっくり丁寧に、時間をかけて押し潰していった。
それでも、まだ子どもだった私たちにとって新しい価値観ではあったし、何よりそこにいる誰よりも声が大きくてこわかったので、それらがすべて正しいのだと思うようになっていった。
「できる子」を大きな声で褒め、「できない子」をもっと大きな声で怒鳴った。
私はみんなの前で怒られやすい子どもだという自覚があった。そのため、いつも先生の顔色を伺っていた。
普通じゃなければいけないと強く思うようになり、幼少期のそれまでとそれからをはっきり分けることができる。
その後、あのチャイムが変更されたかどうかを、もう覚えていない。
私が卒業してすこし経った頃、小学校は廃校となり、建物そのまま別の施設となってしまったのだった。
もう、町に響き渡るあのチャイムを聴くことは一生なくなったのだ。
あのメロディにはもう二度と出会えない。
私の中の記憶は、子どもがいなくなった広い校庭の真ん中に埋められて、その上を砂埃が舞い、やがて完全に見えなくなった。
大人になって、周りとの違いでうまく生きられない自分に出会うたび、あの先生に見張られているような感覚が無意識の中でよみがえって、元気をなくした。
ある時、部屋で一人ぼうっと考え事をしていると、ふと、頭の中にあのメロディがよぎった。
はじめは、なんのメロディか思い出すことさえできなかった。
それでも、途切れ途切れに流れるメロディがどこか懐かしく感じられ、言葉にならない声でうたってみた。
しだいに気になりだし、鼻歌を歌ったり、音階で検索したりして、曲名を探し、非常に有名なひとつの童謡にたどり着いた。
それは、ウェルナーの『野ばら』という曲だった。
その曲を耳にした瞬間、忘れていた記憶が、情景がぱあっと蘇った。
あのメロディだ。
とても素朴で、けれど美しくのびやかなメロディは、私をおだやかな気持ちにさせた。
私の学校のチャイムは、このイヤホンから流れてくるきれいな演奏と違って、単音のみのもっと飾り気のないメロディだったのだが。
そのメロディには、近藤朔風という訳詞家が訳した日本語の歌詞がついていた。
歌詞を見ながら口ずさんでみた。
声にならなかったメロディに、輪郭ができ、形をたもったまま目のまえに落ちた。
その日はちょうど曇っていて、自分の記憶と同じように色がなく、全体が白みがかっていた。
校庭に埋められていた自分の記憶が、ふわりと浮き上がって、私のところに戻ってきた。
嬉しかった。
童謡はメロディが単純で、歌が得意でない自分でも、抵抗なくうたうことができる。
それから、リラックスしたいときや、頭がこんがらがったときに童謡を口ずさむようになった。
ポップスをうたうのと違って、同時に考えなければいけないことが少ないのだ。
うたっているあいだ、頭の中が空っぽになって、身体が周りの空気と混ざりあうような感覚になる。
時が経ち、環境を選び、いまの自分は数年前と比べて幾分か、のびのび過ごせるようになっている。
そんな今も、目の前のことに一生懸命なときほど、思い出したように童謡を口ずさむ。
落ち着きのない日々のなかに吸い込まれていくメロディを、静かに眺めながら、あの日々のことを思い出す。
すると、みるみる現在地が確かなものになっていく気がするのだ。
私の中にある小さなまちに、今日も童謡を響かせる。
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