田村ゆかりライブツアー"Airy-Fairy Twintail"公演中映像の一考察(その1)

はじめに

 「作者の気持ちを答えなさい」というネット等で見かける言葉がある。妙な言葉である。国語の文章題において「作者の気持ち」が問いかけられるのは、あまり出題されない随筆文のみである。論説文では「作者の考え」が、小説では「登場人物の気持ち」が問われる。同一視されがちだが、これらと「作者の気持ち」は明確に異なる。文章で作られたものに限らず「作品」は世に放たれた時点で独り歩きし始めるものだ。
 今回は、現在開催中の田村ゆかりさんのライブツアー『Love Live 2021*Airy-Fairy Twintail*』中における映像小劇についての感想・考察をしていく。この際、主人公に扮するアーティスト本人、三部に分かれる映像の合間に歌われる楽曲については一切考慮しない。あくまで、映像作品に対してのみに留めることとする。ライブ中映像のような制作背景と作品が完全に切り離せないようなものでも、独立した考察が可能なのかという、ある種実験的試みでもある。
 最後にこの拙文は筆者独自の解釈が多分に含まれている。考察に正解はない。違うと感じる場合は、ぜひあなたの考えこそ大事にしてほしい。

1 現代のおとぎ話として

 人形が動く話は古来より多く存在する。ギリシャ神話の『ピュグマリオーンとガラテア』、童話の『ピノッキオの冒険』やバレエ作品の『くるみ割り人形』等である。そういう意味では、本作品は使い古された設定を扱っていると言える。しかし単なるメルヘンチックな童話が描写されているかというとそうではない。例えば、物語中の舞台が現代都市である点だ。人気のない公園、殺伐とした雑踏、無機質なビルの屋上等は、作品全体にある種の寂寥感を与えている。主人公の人形の心情をなぞるように、日の当たる並木道も登場するが、整然と並ぶ樹木はファンタジーからはほど遠く、どこまでも現代的で人工的である。
 無声劇である点にも注目できる。音声はBGMのみで何一つセリフや字幕は登場しない。これにより物語は俗物的にならず神秘性を最後まで保っている。作品を一貫するこれらの表現は、本作品に現代のおとぎ話か神話とでも言うべき独自の世界観を構築するに至っている。
 また、使い古された印象を持たないもう一つの理由は、その結末である。この手の話の王道と言えば、人形が完全な人間になれたり人間と結ばれたりして、めでたしめでたしとなって終わる。本作品はそうではない。望むであろう人間からの愛は充分に得られないし、最後に主人公はあるべき動かない人形に戻っていく。一方で、例えばオスカー・ワイルドの童話(注1)にあるような、救いのない結末というわけでもない。主人公は充分な納得をして笑顔を携えて人形に戻っていく。この見る者によっていかようにも解釈できるような結末がこの作品の最大の特徴にして魅力、そして考察ポイントである。ラストシーンは表面的に解釈すれば「捨てられても裏切られても愚直に相手との想い出に執着した」というようにも捉えられる(注2)。本稿ではその見方を否定する意図はない。だが、本作品の結末はより前向きな意図を内包しており、それこそが作品の根幹を成すテーマに繋がるものであると考えている。主人公の最後の選択を考察するには、冒頭から順を追って考えていく必要がある。

2 前半パートの意味―自我の獲得と生命力―

 本作品はライブ中、三部に分けて上映されるが、より大きく区分けし、第一部の映像を前半、第二部と第三部の映像を後半と分けることができよう。前半は主人公である人形が覚醒し、人間らしい情緒を獲得していく。ゴミ捨て場から日の当たる並木道まで場面も次々と移り変わり、さらには夜から昼へと時間も変化する、動きのあるパートである。一方で後半では、人形はビルの屋上から全く動かず持ち主との想い出に浸ることに終始する。想い出の中で人形の心情は揺れ動き、そして結末へと向かっていく。こうしてみると、物語の主題は後半に置かれていることが分かる。では、なぜ人形がただ単に持ち主を想うだけの話ではとどまらず、人間のように動き、歩き、笑うパートが必要だったのだろうか。
 ゴミ捨て場で目覚めた人形は、意志によって自らの身体が動かせることに気付く。彷徨する人形は水に触れ驚く、ブランコが揺れるのを面白がる、空き缶を拾い上げ匂いを嗅ぐ、行き交う人々をぼんやりと眺めるといった行動を取る。「知覚し反応する」この行動が取れている時点で、主人公は単なる物ではなく動物の類として活動できていることが分かる。一方で、この段階では知覚したものを「認識」できていない。そのため、人間のような情緒が見られない。次に来るショーウインドウのシーンで人形はただの動物から人間へと変貌を遂げることになるが、この転換点については複数の視点から読み解く必要がある。
 主人公の人形はおもむろに閉店したブティックのショーウインドウを眺め、そこに映る鏡像に自分の姿を認め、笑う。脳科学・発達心理学の分野ではミラーテスト(注3)(マークテスト、ルージュテストとも呼ばれる)という実験がある。これは生物が鏡に映った像を自己のものだと正しく認識できるかテストするもので、ヒトの場合1歳時半から2歳頃にこのテストを通過できるとされている。この鏡像認知という考え方を下地にすれば、本作品の主人公は、人間へと次第に発達しており、この時点で2歳児相当の発達段階に来たと考えることができるだろう。
 哲学者にして精神分析家でもあるジャック・ラカン(注4)の「鏡像段階」の考え方は、前述の脳科学の考え方とは逆の立場を取る。脳科学では、子どもの脳の発達にしたがい鏡像を自己と認知できるようになる、と解釈する。子どもの内的な発達にこそ、自己意識、自我の萌芽があるとする考え方だ。一方で、ラカンの唱える鏡像段階にある乳幼児は、鏡を見る時、そこに初めて自己の全体像を見出し、鏡像との同一化を試みることで、自我を獲得する。自我の起源を鏡像という外からのイメージに求めるという点で、自己の内部に求める脳科学とは正反対である。
 本稿は、脳科学的解釈とラカンの精神分析のどちらが人間の発達段階モデルとして確かか、という論を行うことはしない。しかし、人形が自我を獲得していく過程という論点で考えると、ラカン的分析モデルの方が適しているように思える。というのも、人形の情緒、物の認識、反応等は、ショーウインドウのシーンの前後で劇的に変わるためである。したがって、段階的な発達が人形に内的に起こっていると見るよりも、鏡像により外的に自我を獲得したと見る方が自然であろう。
 「鏡像段階」においては以下のように自我が形作られる。

 自我の形成過程において鏡像の経験は理想的な原型(Urbild)を作り上げる作用をする。子どもは以後、この理想的なイメージに到達するために一連の二次的な同一化を試みるが、それに完全に到達することはない。ここにイメージとしての自我が成立する。自我は同一化の堆積であり、いわば玉ネギの皮のようなものである。―向井雅明『ラカン入門』

 本作品の主人公は、ショーウインドウのシーン後も何度も鏡を確認し、そしてその全てで自分に変化を与えている。前髪を整える、衣服を着替える、口紅を塗るという鏡の前での一連の自己改変は、ラカン的解釈に当て嵌めれば、自己の理想的イメージへの同一化を図っているものと考えられるだろう。この繰り返しにより、人形は自我を獲得し、人間らしく覚醒を遂げていくのである。
 切り口は変わるが、人形の笑顔という部分にも着目したい。古代ギリシャのアルカイック期(注5)の彫刻作品には、アルカイックスマイルという表現が特徴的に見られる。現代人が想像するギリシャ彫刻の人体と見紛う出来とは異なり、アルカイック期ギリシャの表現はまだ発展途上であった。そのため、人体の生命力や躍動感を彫刻に描写するには限界があった。そこで取られた表現技法が「笑顔」である。アルカイック期の人物彫刻は皆笑顔を携えているが、楽しい、嬉しいから笑うのではなく、生きていることの表現として笑っている。有名なのがアイギナ島のアパイアー神殿で見つかった「瀕死の戦士像」だ。戦いで傷ついて倒れ込み、今にも死なんとする戦士の表情は柔和な微笑みである。これは死に面した戦士の最期の命の輝きの表現なのである。ショーウインドウで自我を獲得した人形はその後もよく笑うようになる。それは何より、生命力にあふれた人間であることの表象である。
 前半パートの人形の「人間らしさ」をより詳しく紐解くと、自我の獲得と生命力という二点によりもたらされたものであることが分かった。この二つがその後の彼女の行動を理解する上での根拠となっていく。論を後半パートにうつそう。

3 所有という関係性―持ち主と人形―

 物語の後半は、主人公によるかつての持ち主との回想となる。人形と持ち主の関係は所有と被所有という関係のため、純粋な恋愛関係とはならない。事実、他の人形への愛着(注6)や遺棄(注7)という持ち主からの一方的な関係の解除により、主人公は望む愛を得られていない状態である。所有という歪な人間関係は、サドマゾヒズム的であり、耽美文学において題材として取り上げられてきた歴史がある。
 江戸川乱歩の『人でなしの恋』(注8)の構造は本作品に似通っている。箱入り娘で、自らの意思決定力を持たず、結婚後も夫である門野から一方的に愛を享受するだけの京子は実は人形そのものである。そして、自分にとって世界の全てである門野の寵愛をより強く受ける存在(浮世人形)を知り、堪えきれない嫉妬を抱く。京子は、映像小劇の人形とは違い、最初から自由に動くことができるため、嫉妬は人形の破壊という行動に結び付く。しかし、その結果として、夫との関係も破綻してしまう。
 谷崎純一郎の『痴人の愛』(注9)は所有という関係の不安定さがよく分かる作品である。被所有から次第に脱し、最終的に譲治の方を所有してしまうナオミは、支配からの脱却、自由な女性として評されることもある。しかし、この見方はその実、男性本位的な古典的マゾヒズムから脱却できていない。自らの影響下から離れるばかりでなく、逆にこちらを支配しようとしてくるナオミのような女性は、譲治の側である男性視点からすると魅惑的であると同時に恐怖の対象である。では、客観的に2人の関係を見てみるとどうだろう。男女の社会的立場の差異すら無視して考えると、ただ立場が逆転しただけで支配、被支配の構図は何一つ変わっていない。ナオミは、何も知らない状態から譲治によって全てを教えられてきたため、他人との関係性として所有というやり方しか分からない。現に作中で自由になれる機会がいくらでもあったにもかかわらず、ナオミは譲治の元に戻ってくる。マゾヒズムがサディズムを必要とするように、サディズムもマゾヒズムなくては生きられないからである。物語が終わった後も、ナオミは所有という不安定な関係しか実践できないままなのだろう。
 この二編の耽美小説から分かるのは、所有という歪な恋愛関係においては、どこかで被所有側が反抗を試みても、所有者が世界の全てであるために、状況を打破する決定的な選択を取れず、破滅的な結末や退廃的な結果しか招けないということだ。
 さて、本作品に立ち返ろう。主人公の人形も、実は反抗を試みている。前半パートでの自己改変がそうだ。持ち主から与えられてきた容姿を、前髪を切ったり、衣装を変えたりすることによって捨て去る様は、持ち主への反抗に他ならない。しかし、そのやり方は、京子やナオミがしたやり方と異なり、自我の獲得に繋がるものであった。それこそ、所有という関係性から脱却するための足掛かりとなるものであり、主人公の最終的な選択に結び付く、必要不可欠な準備であった。
 主人公は破滅的選択をする可能性もあったことにも留意しておかねばなるまい。第二部の終わりで見せる嫉妬の感情は、持ち主からの愛を独り占めしたい、ずっとこちらだけ向かせていたい、という所有することへの願望に他ならない。もし、主人公がその感情に身を任せていたとしたらどうなっただろう。京子やナオミのようになっていたことは想像に難くない。いや、もっと酷いことになっていた可能性もある。所有願望の矛先である持ち主は、皮肉なことに、自由に動けるようになった時には手の届くところにいなかった。やり場のない感情は、自らを滅ぼす方向に向かっていたとしても不思議ではない。しかし、結果として彼女はそうしなかった。その理由を本稿では人間的成長による真の「愛」の獲得に求めるわけだが、まずは結末の考察へと論を進めよう。

4 「愛される」ことより「愛する」こと

 結末に関して、解釈が多様であることは冒頭でも触れた通りだが、多くの人がいわゆるバッドエンドなのではないかと考えてしまう理由は、持ち主からの愛をもう一度手に入れることはなく、ただ主人公の側からのみ持ち主を愛するだけ、という終わり方に違和感を覚えるからである。この違和感について、ドイツの哲学者であり、精神分析家のエーリッヒ・フロム(注10)の論を用いると、現代人が愛に対して抱いているある思い込みに因るものだと分かる。フロムによれば、資本主義社会が浸透したことで現代人は市場原理と公平さを身に着けたが、同時に自分をも商品化してしまった。つまり、自分をパッケージ化し高く売り、何事においても見合った取引に漕ぎ付けることを目的とするようになった。フロムはこのような資本主義的価値観の蔓延した現代における恋愛をこう表現する。

 ふたりの人間は、自分の交換価値の上限を考慮したうえで、市場で手に入る最良の商品を見つけたと思ったときに、恋に落ちる。―エーリッヒ・フロム『愛するということ』

 本作品に当て嵌めると、主人公側からは愛を支払っているのに、持ち主の側からは支払われていない。すると、「これは相手のサービスに対価を支払う市場の原則からして不公平ではないか。向こうだけ愛されるのではなく、こちらも相応に愛されなければおかしい。」という見方になる。この見方が先述した違和感の正体である。公平な愛の取引がなされないで物語が終わるのは現代社会的には確かにバッドエンドだ。
 だが、フロムはこの見方そのものが愛の本質からかけ離れたものであると批判する。自分を売り出すという前提が間違っているのだ。つまり、多くの人は愛を「愛される」ことの問題と考えているが、実は愛とは「愛する」能力の問題なのである。愛は自然に「落ちる」ものではなく、技術であり、努力し学ぶことで習得していくものである。
 フロムの愛に関しての理論を下地に本作品を見てみると、主人公の行動は愛する技術を習得し、それを実践しているモデルケースであることが分かる。フロムは、サドマゾヒズム(フロムに言わせれば「共棲的結合」)は自分か他人を軽視した形での未熟な愛の形であり、一方で、成熟した愛とは自分の全体性と個性を保ったまま相手と一体になることである、と述べる。全体性と個性、これは言い換えるなら自分は自分であるという意識、つまり自我のことである。自我を獲得した主人公は、持ち主に所有されていた頃の愛、自分で自分を捨ててしまっていた愛から脱却し、成熟した愛を実践できるような準備が整っている。この心理的成長と成熟した愛こそが、彼女が嫉妬の感情を克服できた理由であり、最後の選択を解き明かす鍵となるものだ。ここの理解のためには、さらにフロムの理論を読み進める必要がある。彼が愛について述べている中から要素を抽出し、箇条書きにしてみよう。

① 愛とは人間の中にある能動的な力である。ここでいう能動的な力とは、自発的な活動を起こそうとする力のことであり、反対に羨望、嫉妬、野心、貪欲等の達成すべき目標が自分の外側にある力は受動的である。能動的な力は自由でなければ実践できない。

② 能動的な愛は「与える」ことで表現できる生産的な活動である。与えるとは何も物質に限ったことではなく、生命(喜び、興味、知識、理解、ユーモア、悲しみ等)を与えることである。

③ 与えることができる人は、なんでも溜め込もうという欲求を克服している。本当の意味で与えれば、必ず相手は何かを受け取る。与えることは、他人をも与える者にする。

④ 愛の能動的な性質を表す基本的要素とは、配慮、責任、尊重、知(相手を知ること)である。

⑤ 愛を修練するために必要なことの1つは「信じる」こと。自分を信じることは、自分の中にある人間的な力を信じ、自分の力に頼ろうとすることである。他人を信じることは、その人の人格の核心部分や愛が、信頼に値し変化しないものだと確信することである。これらの信念を持つには思い切ってその価値にすべてをかける勇気が必要である。

⑥ 愛することとは相手を通して世界全体を愛することである。

 ①はフロムの愛の理論の中でも根幹を成すものだ。主人公は所有の関係性から脱し自由に、そして自我を持つことで能動的に愛せるようになった。これは、例えば、他の人形への嫉妬心から持ち主の愛をこちらに向けようと努力する、という受動的な性質のものではない。自由にどこへでも歩いて行けるようになった人形は、自由に相手を愛する選択が取れるのだ。
 ②とは、生命を与えることであり、生命を与えるには生命力がなくてはできない。主人公が獲得した笑顔=生命力は、彼女の内から顕れてくるもので、何より自発的で生産的である。
 ③に関して、なんでも溜め込もうという欲求を捨てきれない人とは、与えることに見返りを要求したり、与えることが損や我慢だと思ったりする人のことである。かつて、主人公が持ち主から受け取ったネックレスや花、そして愛は、おそらく本当の意味に近い形での「与える」ことだっただろう(注11)。与えられて、受け取った主人公は同じく自らも与える者になった(主人公が動き出したのも与える者になったが故かもしれない。)。彼女が人に与える段階に達した時、その胸の内に去来するものは、与えられてきた記憶である。持ち主から様々なものを贈られた思い出は、そのまま主人公の与えることの象徴として心の中で再構築される。
 では、主人公の与えているものの正体は何なのか。実は、直接的描写に近い形で描かれている。彼女が第一部で手に取り、そのまま最後まで持ち続けているピンクのガーベラ、この花言葉を調べると「感謝」である。これは④の愛の基本要素、配慮、責任、尊重、知を端的に実践した言葉でなかろうか。相手を気にかけること(=配慮)、相手からの、そして相手への愛に責任を持つこと、その人のことを知り、相手の立場を尊重すること。これらを全て揃えた時、人は感謝という形でその愛を示すだろう。それは、人形から人間になった主人公にしても同様である。
 ⑤にあるように、自分と相手、どちらをも信じることは愛するために必要な要素である。持ち主は、かつて主人公を愛し、与えてくれた。それは彼女にとって変わらないもの、信頼に値するものと言えるだろう。また同時に、動き出してから彼女自身が獲得した愛と感謝という人間的な力も、信頼に値するものと言えるだろう。魔法の効力が切れるからなのか、それとも自分の意思によるものなのか、主人公は人形に戻っていく。一見、人間らしさの喪失とすら見えるこの描写は、二種類の信頼を胸に、思いきって一歩踏み出していく主人公の勇気の表れと言えるのではないだろうか。
 人形に戻っていく直前の微笑みから察するに、主人公は⑥にあるように持ち主への感謝を通して世界全体を愛したことだろう。ビルの屋上から見る夕焼けや夜景が美しいように、愛を通して見渡す世界は生き生きとした美しさに満ちているからである。

 愛とは、特定の人間にたいする関係ではない。愛のひとつの「対象」にたいしてではなく、世界全体にたいして人がどうかかわるかを決定する態度であり、性格の方向性のことである。もしひとりの他人だけしか愛さず、他の人びとには無関心だとしたら、それは愛ではなく、共棲的愛着、あるいは自己中心主義が拡大されたものにすぎない。―エーリッヒ・フロム『愛するということ』

 主人公は人間から人形に戻る時、なぜ幸福そうなのか。それは、真の意味での愛を手に入れたからである。自由で生命力に溢れ、自分の内から湧き出るような愛情を知った彼女は、人形に戻ろうともその愛情を失うことはないと信じている。むしろ、人形に戻ることこそ次のスタートであるとすら思っているかもしれない。彼女はその姿をもって、愛の不足する現代社会の我々に対し、愛するということを見事に示して見せたのである。

(その2に続く)


※脚注

(注1)オスカー・ワイルド(1854-1900)の童話は、芸術的文体とその陰鬱な結末に特徴づけられる。『幸福な王子(原題 'The Happy Prince')』『ナイチンゲールとばら(原題 'The Nightingale and the Rose')』(どちらも1888年発表童話集『幸福な王子とそのほか(原題 'The Happy Prince and Other Tales')』に収録)などが有名である。作品の文学的評価とは別に、童話として、子供が読むものとして、その救いのようない結末が非道徳的であるという批判が発表当時から存在する。

(注2)実際、友人らとの会話やSNSの感想の中で多く見聞きしたのは、この結末はいわゆるバッドエンド(より正しく言うならメリーバッドエンド)なのではないかという意見である。

(注3)このテストはチンパンジーの自己認識を調べるためゴードン・ギャラップJrによって確立された。実験対象となるチンパンジーは鏡をこれまでに見たことが無い者から選ばれ、麻酔をされている間に眉や耳などの顔の周辺に赤い染料をつけられる。そして、麻酔から覚めた後に対象のチンパンジーがどのような行動を取るかが観察される。その結果、鏡を見せる前は赤い染料がつけられた部分をほとんど触らないのに対し、鏡を見せた後にはその部分を頻繁に触れることが分かり、チンパンジーは鏡像を自分であると理解できると結論付けられた。
 このテストはマークテストと呼ばれ、チンパンジーやオランウータンなどの大型霊長類、イルカ、シャチ、アジアゾウ等が鏡像を自分と認識していると結論付けられている。ヒトの場合は染料として口紅が選ばれることが多いため、ルージュテストとも呼ばれる。この試験を通過する2歳前後の幼児は写真などの自分にも反応するようになる。
 本稿では『脳科学事典 鏡像認知』のページを参考にした。

(注4)ジャック=マリー=エミール・ラカン(1901-1981)はフランスの哲学者にして精神分析家である。ジークムント・フロイトの精神分析理論を再評価し、発展させた人物として知られる。筆者は今回の考察で、主人公は鏡により自我を獲得していると分析し、その考えを補強する中でラカン理論に初めて触れた。また、友人による「ラカンの原著は難解で、さらに邦訳は所によりさらに複雑怪奇である。」との助言を受け、概説書から触れている。参考にしたのは向井雅明著『ラカン入門』(2016)(ちくま学芸文庫)との斎藤環著『生き延びるためのラカン』(2012)(ちくま文庫)。なお、ラカン本人は著作をほとんど残さなかったとのことで、論文集『エクリ(Écrits)』や、セミナーの書き起こし『セミネール(Séminaire)』などが弟子らにより残されている。

(注5)アルカイック期(紀元前700~前480年頃)はそれまで小さな彫刻しかなかった古代ギリシャ社会に等身大からそれ以上の巨大な彫刻が出現し始めた時期となる。美術以外でもポリスや植民市が発展し、社会的政治的に古代ギリシャ社会が発展・拡大を遂げた時代となる。この期間のギリシャ社会時事としては、前594年アテネでのソロンの改革、前546年同じくアテネでペイシストラトスの僭主政治の開始、そして前490年の第1次ペルシア戦争である。ペルシア戦争を境に、古代ギリシャ社会は次のクラシック期に入っていくことになる。
 本稿の参考は、中村るい著加藤公太作画『ギリシャ美術史入門』(2017)(三元社)と、筆者が大学時代に一般教養で受けた授業内容である。

(注6)持ち主は他の人形への愛着を示すシーンがあるが、別の対象ができて主人公の人形を大切にしなくなった、という解釈は実は早計である。つまり、主人公も他の人形も同様に大切に扱っていた可能性がある。まず、主人公は持ち主の部屋のシーンでは一貫して他の人形より高い位置に飾られており、決して無下に扱われているわけではない。次に、持ち主からの寵愛を受ける他の対象として金髪の人形が存在するが、映像をよく見ると金髪の人形より手前にさらに他の人形が映っている。つまりこのシーンは、持ち主は複数の人形を同時に大切にしている描写と捉えることも可能である。

(注7)人形の遺棄に関しても(注6)と同様に複数の解釈が可能である。第一部ではなぜごみ捨て場から主人公の活動が始まったのか説明がない。第二部で他の人形への愛着の移行が示され、見る者は倒置法的に遺棄の理由を悟る。しかし、ここで注意したいのは遺棄の直接的な描写はないため、他の人形の方が大切になったから捨てたという理由付けは見る側の想像でしかないということである。例えば、(注6)で示したように持ち主が複数の人形を同時に大切にしていたと解釈するなら遺棄はしないはずである。とするならば、例えば持ち主は病気や不慮の事故により早逝し、もしくは寿命により没し(人形は歳を取らない)、遺族に相続されず遺棄されたという見方もできるわけである。要らなくなったから棄てたという見方が難しい理由として、ごみ捨て場での主人公の人形の座るような体勢も挙げられる。本当に愛着が失くなったのなら、無造作に捨てられていてもおかしくないが、そうでないところに持ち主側の事情があって仕方なく手放した、という解釈の余地がある。
 このように主人公の遺棄の経緯には複数の解釈が可能である。しかし、ここでどの解釈が正しいのかという議論をするつもりはない。重要なのは、主人公の人形は作中の時間軸において持ち主からの愛を得られる状況にないということであり、本稿ではそれ以上の発展は試みないこととする。つまり、どんな遺棄の理由であれ、基本的に本稿の考察と矛盾するものではない。

(注8)『人でなしの恋』は1926年(大正15年)発表の江戸川乱歩(1894-1965)の短編小説である。乱歩は、自身は気に入っているが、奇抜さが足りず編集者にも読者にもあまり歓迎されなかった、とその後述懐している。以下あらすじ(ネタバレ注意)。
 いわゆる箱入り娘の京子は縁談にて地元の名士の門野家に嫁ぐことになる。門野は物腰柔らかで愛情深かったが、半年ほど経つと京子は門野の気持ちに疑念を抱き始める。そして、門野が土蔵にて他の女性と密かに会って話していることを突き止めると、逢瀬の後に門野が去った隙を見計らい土蔵に入り込む。すると、そこに恋敵の女の姿などはなく、見つけたのは長持の中のまるで生きているかのような出来の浮世人形であった。門野の逢瀬の相手は人形であったのだ。その事実を直感的に悟った京子はその人形をめちゃめちゃに破壊してしまう。すると、それを知った門野も人形の後を追って自殺してしまったのだった。

(注9)『痴人の愛』は1925年(大正14年)発表の谷崎潤一郎の長編小説。「マゾヒズムの文学」谷崎の代表作品。ナオミのモデルは当時の妻の妹の石川せい子であり、谷崎は一種の私小説であると述べている。以下あらすじ(ネタバレ注意)。
 生真面目なサラリー・マン河合譲治は、カフェでウェイトレスの卵の少女ナオミを見初め、共に暮らし始める。譲治の理想は少女を自分好みになるよう教養と作法を教えて育て上げ、妻にするというものだった。しかし成熟するにつれ自分の手に負えなくなる一方で、女としての魅力を増していくナオミには、譲治の知らぬうちに何人もの男が群がるようになる。不満を抱き、ナオミと距離を取る譲治だが、離れるとナオミが恋しくて仕方なくなってしまう。妖艶さを増していくナオミは、次第に譲治を翻弄するようになっていき、関係が逆転していく。最終的にナオミの魅力に抗うことができなくなった譲治は、浮気も許す、財産もナオミの好きなように使う、という約束を交わすことで結婚を承諾してもらい、隷従するような夫婦関係を営むことになるのだった。

(注10)エーリッヒ・ゼーリッヒマン・フロム(1900-1980)はドイツの哲学者、精神分析家。フロイト理論にカール・マルクスやマックス・ヴェーバーらの理論を合わせて精神分析に社会的視点をもたらし、社会心理学を産み出した。学史的には新フロイト派に数えられる研究者である。ユダヤ教徒であるが、禅や東洋思想にも興味を持ち、またドイツから離れアメリカやメキシコに移住し教鞭を取った。本稿ではフロムの著作の1つ1956年発表の『愛するということ(原題 'The Art of Loving')』の鈴木晶氏による新訳版(2020)(紀伊国屋書店)を用いた。フロムによる他の著書は『自由からの逃走(原題 'Escape from Freedom')』『人間における自由(原題 'Man for Himself')』等がある。

(注11)持ち主と主人公との関係は「所有」という歪な関係性ではあるが、人間と人形という極端な形であるが故に例外的に「与える」ことができた。物言わぬ人形に見返りを求めたり、損をしているという感覚で何かを与えることはないはずだからである。

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