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cultist1999

思い出の時代。読み飛ばしの回。
信仰の書"Culdcept Expantion"。
世紀末。インターネットはまだガキで、世界は細いISDNを通してhomepageとpostpetで繋がっていた。ゲームハードにネット接続なんて無い時代。
我々は15ブロックのメモリーカードにブックと魂とその他RPGのセーブデータを詰めて対戦会場に向かった。

I.地元のテレビゲームショップ(当時そういうものが町にはあったのだ)が家庭用ゲームの小さい大会なんかをよく行ってるアクティブなお店だったので、それに乗っかる形で"Culdcept宣教師"たる俺はよく対戦会開いた。
年に10回もやったかどうか、当時毎度よくあれだけ集まったなぁと思うが(遠方から車で5分感覚で来てくれる英雄達の功績だ)、それに見合う満足と熱量があったんだと思う。
II.常にオンラインステータスを持つ現代には失われた感覚かもしれない、普段CPUとしか対戦できず、ネットによる情報共有もほとんど無く、雑誌や攻略本の情報が一番信頼された時代のオフラインでの対戦会というのは、カオスだ。その日その場でしか起きない事が起きる、対面対戦のカオスはいまアナログボードゲームをやってる理由に近い。発見と思考の根源的な楽しみがある。
III.当時のコミュニティは風化して教会も信徒もちりぢりとなった。今でもゲームをプレイしているかつての知り合いはずいぶんと減ってしまったが、ルーチンワークの日常では絶対会う事のないとても得難い狂った友人達であった。ここに墓を建てておくよ。

思い出は役に立たないが、経験には意味がある。
テクノロジーは膨大な時間の圧縮による試行回数を得て人の楽しみを奪ってしまった部分がある。ロボットアームが最適の"歩"を指す事になんも感じる事はない。全ての対戦ゲームがおそろしい試行回数による解析を必要とはしていない。競技に耐える強度のルールや短い対戦時間は大変美しいが、プレイヤーは真顔だろう。
人間が劣るものとしてデジタルが打った余白に楽しさはない。人間が人間のためにカオスを産みだす1アイディアを産むしかない。

自動車が勝手に走る時代、俺はAIの"交渉"コマンドに乗せられて楽しくなんかならない、はず。その領地交換 OK Google!

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