いつぞやのふせったー

に、書いた羅小黒関連の浅はかな感想です。
noteアカウントを作るにあたって、もったいない精神でサルベージしました。
異論は認めますし、視聴からだいぶ経ったので続きとかさらなる掘り下げは一切ありません。斜め読みですっ飛ばしても大丈夫なやつです。


羅小黒戦記、フーシー一味の敗因の一つを、私は「妖精を自分たちの価値観で一括りにしているから」と解釈した。


※ネタバレと自分の浅はかな考えしかないです※


「人間」が色んな人種・国籍・民族がいるように、「妖精」にも様々な生態があって、フーシーはあくまでも自分や自分の同類のために行動したのであって妖精全体のためではない。フーシーの悲壮さ・潔さはフーシー自身が長年の懸命の思考で、それをわかっている、だけど自分ではもうこの道しか選べない、というところもミソだと思う。
同じ妖精でも例えば画虎さん。本体は小さくて水墨画を操って護身と普段の生活をしているけど、そのために構える店は当然人間の文化や生活に基づき、その中に隠れるものなので、龍遊から人間が居なくなれば彼も龍遊に居づらくなる。
例えば紫羅蘭(花の妖精)。本人が進んで花を株から切り取って売る商売をしているところから見ると、一口花の精といってもいっときの咲く花だけが生命線の儚い存在ではなく、花を名前とする植物が本体で毎年新しく花を咲かせられる、厳密に言えば植物の精と思われる。植物と人間の関係にも色々あるが、都市に住み花を配達するタイプならば壊し壊されではなく愛でる愛でられの関係と思われ、彼女の場合もおそらく龍遊に人間がいた方がいいタイプ。
そして何より人食い族のネパ。彼こそ作中妖精の中でもダントツ人間から離れられないタイプの妖精だと思われる。なんせ主食である。しかもwebアニメの会話を見る限り、彼から人間を取り上げた場合、中国北方の人たちに小麦粉製品を食うなとか日本人に米を食うなと言った場合の制限では収まらず、全く人間を喰わないと死ぬレベルらしい(ここら辺うろ覚え)。人間を安定して食うためには館の厳しいらしい制限を受け入れることもやぶさかではない。そんな彼にとって人間がいなくなった龍遊は全くもって住めるようなところじゃない。
要約するともしフーシー一派が無事故郷としての龍遊を取り戻せたら、代わりにネパなどの妖精が故郷としての龍遊を失う。人間と妖精の衝突以前に妖精と妖精の間でも利害が一致しない。
逆に人間がいてもいなくてもやっていけるのが執行者の妖精たちだ。シュイは人間が好きだけど人間なしじゃ生きられないわけじゃないから、仮に龍遊から人間がいなくなっても、人間が動物園通う感覚で近隣の町を訪ねればいい。家が有料になってしまった爺ちゃんは逆に家に帰れるし人間嫌いな二人はもってのほか。
じゃあなぜ執行者は人間を追い出さず、フーシー一味は人間を追い出したいのか。視野の広さの差じゃないだろうか。
執行者は「他の妖精」が見えている。自分たちのように人間がいようがいまいが生きれる妖精ばかりじゃなくて、人間がいたほうがよく生きれる妖精や、人間がいないと生きていけない妖精の存在も認識内に捉えていて、できる限り多くのものがそれぞれ生きていけるようにしたい故の、館長がいう「ギリギリの危ういバランス(原文セリフ、自訳)」をできる限り維持しようとする動きじゃないだろうか。
逆にフーシーたちは自分と仲間で精一杯だ。勿論それは彼らが悪いわけじゃなく、彼らなりに努力も譲歩もしたのに状況が巡り巡ってフーシーが思いつめずにいられないまでに至ってしまっただけだ。彼らの選択を責められる者は、非同意のまま力を奪われて利用された者たち(子供の小黒だけではなく、画虎さんなどの「その口で妖精を守りたいと言ったそばからの妖精被害者」も込みで)のみである。だが過程はどうあれ現実として、人間は論外としても、彼らは「自分たちとは生き方が異なる妖精の生きる環境」を全く考慮せずに、危うく奪ってしまうところだった。だから彼ら一味は、より多くの妖精の賛同を得られず、勢力として孤立してしまった以上最初から勝目は薄かったのではないだろうか。むしろ、そんな敗北色濃い状況から、自分がそこに生きた証明である大樹を龍遊の最中心に強く根付かせたことは、完全敗北ではなく痛み分けに持ち込んだことで、館があらゆる勢力の危ういバランス維持を考慮する際には自分と同じような存在を意識せずにいられないようにしたのは、フーシーの最初で最後の局部的勝利なのではないだろうか。

総括して言うと、価値観が単一な(そうなる状況に追い込まれてしまった)フーシー一味は最初から敗北の未来が見えていた。逆に館が勝利できたのは、自分たち「妖精」と一括りにまとめられた存在の内部でも異なる価値観が存在することを認識しており、それら+外部環境の人間の価値観というお互い何重も衝突・矛盾している存在を、ギリギリでも危うくてもできる限り共存できる手段を模索する姿勢を取っていることによって、より多くの者が「館側の方が結果的に自分たちの利になる」ために彼らに手を貸し、使える力も手段もより多岐にわたりより巨大になり、その結果本当に解決できる問題や衝突も多くなれるという良性な循環に持ち込めたから、と私は思っている。

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