丹後局は優しいのか?

ああ、分かってる。分かってるんです。
あそこで語られた丹後局の言葉はあっているし、三谷氏も演出家も分かってあの場面を作っていることを(三谷氏は楽しみにしていたらしい)。
おそらくあれは、政子の、そして頼朝と鎌倉武士たちの前に最初に立ちはだかった都の壁なんですよ。
ここを乗り越えて政子は卿二位ならぬ藤原兼子(シルビア・グラブさん)と対決(対面)。見事勝利して、皇族将軍の確約を得(※)、そして従二位の位をもらう。(悪様に言われた丹後局と同じ従二位、政子の成長が伺われる)
(※実朝の暗殺でこの話はご破産になり、さらには卿二位も後鳥羽から遠ざけられてしまうのだけど)
この大河が承久の乱に物語の頂点を置いている以上、乗り越える壁は朝廷及び都の公卿たちであるべきで。
都に武士の楔を打つというのは頼朝のやり残した、そして政子と義時が引き継ぐ遺志としてふさわしくて。
そういう伏線の元にあのシーンがあるのだということは分かっているんです。

ただ、歴史好きとして、それはあの当時の政子及び頼朝の実態としてはどうなのだろう?と疑問を呈したくなるのです。
専門家でもない者が、専門家の文章に一字一句批判するのは、それこそ「厚かましいにも程がある!!」なんだけど、あえて疑問に思ったところを。

大姫入内は頼朝の失策か?


〉この入内騒動は、後世、源頼朝最大の失策であると言われています。

それが定説でしたが、最近は見直されてもいます。また、失策の部分も観点が違います(後述)。
見直されている説については、下記

https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/70515

頼朝の通親への賂は金銭だけだったか?

〉更に頼朝が源通親に賂(まいない)を贈っているシーンがありましたが、「これで上手くいく」と安心している頼朝に、「そんなわけあるか!!」と思ってしまいました。

賄いだけではないです。
土地を巡る訴訟で、通親有利の判決を下しています。
そして、コレこそが都の貴族が頼朝から欲しかったものです。
武士がなぜ力を持ち始めたかというと、この当時の経済基盤が荘園だったからです。
貴族たちはこの荘園を支配し、そこからの上がりで生活していました(もう一つの上がりは知行国なのですが、話が長くなるので省きます)。
荘園には、それを管理して、貴族たちに荘園の上がりを納める人が存在していました。それが武士です。
彼らは色々な経緯を経て(説明すると長いので省きます)、貴族たちに上がりを納めるのを渋り出します。
また、土地問題でより強い権力を持った人間に流れたり、奪われたりします。
そういった理由で訴訟問題となるのですが、当時の朝廷には荘園へ口出す力がありませんでした。
そこで現れるのが武家の棟梁です。
彼らは軍事力でもって武士たちを従えていました。
武士は、貴族の命令には従わないけど、武家の棟梁(この場合鎌倉殿こと頼朝)の命令には従いました。
だから、上がりの出し渋りや土地の争いがあった時、自分に有利な判決を頼朝にどうしても出してもらいたかった。
通親や丹後局が頼朝に擦り寄ったのは、そういう事情があります。
お金も寺への寄進も欲しかったけど、何よりも彼らがほしくて頼朝しか出せないものが、この訴訟判決文(政所下文とか袖判下文とか)だったのです。
ちなみに丹後局には、自分と後白河の間にできた娘、宣陽門院が莫大な荘園を持っていました(かの有名な長講堂領です)。
丹後局は後に権力を失い、朝廷を去りますが、ここで頼朝と政子と渡りをつけたため、宣陽門院は承久の乱後もその荘園を安堵されます。(そして、長講堂領になることを考えると丹後局側からすればこの面会は願ったり叶ったりだったでしょう)

大姫の入内はそんなに分不相応だったか?


〉帝の仕事は、跡継ぎをつくることと、平穏無事に次代に政(まつりごと)をつないでいくことです。なので、後宮内では、皆が認める姫君のところにだけに通うのが定番です。
わざわざ波風を立てそうな相手の所に行くはずがありません。あっても気まぐれの一度か二度が精々です。(それでも、あるかどうかははっきりと確約されているわけではありません。運次第です)
なので、大姫にとって入内するということは、熾烈な女性たちからのいじめに耐え抜き、来るかどうかも分からない帝の気まぐれを何日も、何か月も、何十年もただひたすら「待つ」生活が予想されるわけです。

大姫が待つか待たないかは、それこそ頼朝の政治力に掛かっています。
こればかりは大姫の責任ではないです。
そして、その大姫の入内生活の後ろ盾として、丹後局にお願いしているのですから、丹後局に説教される覚えは無いと思うのですよ。
むしろ、「お前が何とかしろ!」というのが、あの時の政子の気持ちでしょうか?
(この後、母親が用意すべきことを説明されていますが、用意するのは丹後局で、政子はせいぜいそのための費用を見繕うだけだと)

私は、この段階ではまだそこまで具体的に入内の話になっていないと思います。
三幡がそうだったように、女御の宣旨を受けて初めて、正式に「入内」となる。
大姫はまだその前段階。入内するために世話になる丹後局と会う、ただそれだけだったと思うのです。
件の丹後局の娘、宣陽門院への面会を頼朝と政子は望んだらしいから、おそらく宣陽門院の養女になっての入内を希望していたんじゃないかな?(素人推理です)
だったら、母親の身分は問題無いし、丹後局の全面的なバックアップも望めるしね。
もっとも、丹後局は大姫入内に乗り気ではなかったという話もある。これ以後、大姫入内の話は進まなくなるからだ(ドラマではすぐ亡くなったように描かれていたが、あれから二年後に大姫は亡くなっている)。
だから政子と大姫に会っても、あそこまでの罵倒はしないまでも、京都人特有のイケズでお茶を濁していた可能性はある。

さてここからは、大姫入内について頼朝の失策に関わってくるのですが。
そもそも頼朝は大姫入内を考えていなかった、本命は三幡入内だったという説があります。
これは結構本心をついてると思うのです。
大姫は入内の話の前に一条高能と縁談がありました。
吾妻鑑に書かれるぐらいだから、公式として進められていた縁談だったと思うのです。
で、古典に詳しい方ならご存じかと思いますが、基本入内する姫は入内前に縁談があることは好ましくなかったかと。
丹後局がおっしゃった通り、「帝のために生まれ、帝のためにあり続け」なくてはいけない。
頼朝が大姫の入内を考えていたら、一条高能との縁談を進めただろうか?
大姫がこの縁談を木曽義高との婚約を持ち出して断ったという話も、なんだか言い訳がましいなぁと私は思うのです。
まるで、「縁談あったけど、断ったから。義高との婚約? 成人前だからノーカン! しかも大姫は義高に操を立てていたから、身も心も真っ新よ!」と吾妻鑑が言い訳をしてるような...。
三幡入内を想定していたと聞けば、なるほどと納得いくことがあるのですよ。
三幡には中原親能という京都事情に詳しい人を乳母夫に付けていた。
おそらく中原親能とその妻によって、三幡は入内にふさわしい姫として育てられていたと思います。
さらに中原親能は京都と鎌倉を何度も行き来していました。三幡が危篤の時も親能は京都にいたぐらい。三幡入内のために、京都で根回しをしていたことは容易に想像がつきます。
大姫の一条高能との縁談も、三幡入内のための布石だと考えれば納得行きます。
まだこの頃の頼朝には、姉の縁を頼るしか方法が無かった。
ところがそこに、大姫入内の話が転がり込んでくる。
後白河院が亡くなって力を失うことを恐れた宣陽門院派が頼朝に擦り寄ったのだろうけど、頼朝としても大姫を一条高能と結婚させるより、いっそ入内させちゃった方が三幡入内の足がかりにはちょうど良かった。
大姫入内には、大姫だけが後宮入りするわけでは無い。大姫の身の回りの世話に、何より大姫サロンを形成する為に数多くの女房も一緒に後宮に入る。そして、彼女たちの夫や親兄弟は大姫の近臣として宮中に入っていくのだ。
そこに何らかの派閥が形成できれば(それには多少強引な頼朝の力も必要だろうけど)、大姫が帝の御子を産めなくても、三幡が帝の寵愛を受ける道筋はできる。
大姫の入内は、大姫が一条高能と結婚する以上に三幡入内に向けて効果があるのだ。
そして、三幡は国母にならなくていい。帝の子を産むだけでいい(だめなら養子でもok)。
帝の血を引いたその皇子、あるいは皇女は、未来の鎌倉殿、あるいはその妻や母になり、鎌倉幕府は朝廷に大きな楔を打ち込むことになる。
頼朝は一足飛びにそう考え、性急に大姫入内を進めてしまった。そして九条兼実とのラインを切ってしまったのが、私が思う頼朝の失策である。
実際に丹後局も土御門通親も、大姫入内には本気ではなかったのか、その後進めようとはしなかった。
力こぶを作ったのは鎌倉側だけで、大姫は入内どころかその手前の手前、「そんな話がありますよ」という段階で終わってしまう。
女御宣旨を受けた三幡とはえらい違いだ。
これはまさしく頼朝が、丹後局と通親にしてやられたのだと思う。
ただ、その後頼朝が亡くなっても、三幡が亡くなっても、通親が亡くなっても、鎌倉幕府は通親と丹後局のラインは切らなかった。
それは、入内の話だけでなく朝廷とのラインとしても、この二人は利用価値があったということなのだろう。そして通親と丹後局も鎌倉幕府とのラインを最大限利用する。
色々あるけど、一応ウィンウィンの関係だったのだ。

政子は無教養だったか?


次に、下記指摘の政子の失態の話ですが。

政子「今日は帝にお会いできるのですか?」
失態その1 勝手に顔を上げている
失態その2 丹後局が名前を呼ぶor話しかける前に声を発している
失態その3 視線を合わせて話している

先に私の結論を言えば、史実の政子がこのような失態をするはずがない。

木曾義仲の失態が、後世面白おかしく書かれた時代に、政子がこのような失態をすれば、都の貴族が日記に書かないわけがない!
丹後局など、嬉々として噂話をしただろう。
(ちなみに、後妻打ちは最近の研究では京の風習で、今回のドラマでも都人のりくが提案している)
さらに、政子の父、時政は都での滞在経験があるし、時政の妻りく(牧の方)はそもそも都の人間だ。
また、頼朝の近臣には都出身者が何人もいる。
その者たちが政子に立ち居振る舞いのアドバイスをしないはずがない。
何よりも、当時の東国武士が無教養の野蛮人で無かったことは、専門家の方々も指摘している。
政子は間違いなく、丹後局と並んでも遜色無い知性と教養を兼ね備えた女性だったのだ。

ここの部分は全て、後々の話の伏線にする為の脚本上の演出だと思う。
前にも書いた通り、この大河は物語の頂点を承久の乱に置いている。
その為には、そこまで貴族及び公家社会は憎たらしい存在でなくてはいけない。
政子たちは何度も、悔しい思いをしなくてはいけない。
その代表としての丹後局の存在だ。
また、東国武士である政子の成長も大事だ。
無教養だった政子が、最終的には教養という武器を身につけ、都の貴族相手に戦っていく為には、一度挫折も味わわせなければならない。
そういったストーリー上の都合で政子は無教養な人物として演出されたのだろう。
史実の政子は、決して無教養ではないことは声を大にして強調しておきたい。

結論。丹後局は優しかったのか?


最後に、丹後局は優しかったのか?であるが。
これも私は、史実もドラマ上も、決して優しくは無かったと言いたい。
史実の丹後局は、何度も書いた通り、大姫の入内にはあまり乗り気ではなかった。
なのに、政子や頼朝に耳にいい事を言って、有利な判決文や金銭をせしめ、政敵を追い出させたのだから、優しかったはずがない。
そしてドラマは、先にも言ったが、丹後局は政子の乗り越えるべき壁だ。
今後、何度も戦う羽目になる敵の代表だ。
優しいはずが無い。
あそこを憎たらしくも怖い敵として認識するのが、「自分ができるすべての力で、一番嫌で一番意地悪な女の人」を演じた鈴木京香を褒め称えることになると思う。

素直に、
なんて憎たらしいんだ、丹後局は!
と怒ればいいと思う。

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