「反ワクチン」に石を投げる前に


1900年代のアメリカの建築家、ロバート・モーゼスは、ロングアイランド州立公園の開発をした際に、道路と立体交差する陸橋をあえて低く建設しました。当時、自家用車を所有できたのは一部の高所得者層であり、そのほとんどは白人でした。いっぽう、有色人種を中心とした低所得者層は大型のバスを利用することが多く、そのようなバスは公園道路にかけられた低い陸橋の下を潜ることができませんでした。のちに、モーゼスは強い人種差別思想を有していた人物であり、自家用車はくぐれるがバスはくぐれない、絶妙な高さの陸橋は、貧乏人や有色人種を自身の設計した公園から“排除”し白人や富裕層の憩いの場にするために意図的に設計されたものだった、という指摘が哲学者ラングドン・ウィナーの“Do Artifacts Have Politics? ”(『人工物に政治性はあるのか』)という論文にてなされます。モーゼスは政治的意見を表明するのではなく、建築家としての自らの技術と、「橋」という人工物を通じて自らの政治的理想を実現させることに成功したのです。


「科学」や「技術」と社会との関係性の歴史を勉強していると、この「モーゼスの橋」という寓話を一度は目にします。これほどはっきりとした例は少なくても、一見するとなんの政治的意味も持っていないように見える人工物そのものが実は背後に政治的な利害関係を孕んでいる、という現象は我々の社会において少なくないのかもしれません。


ワクチンは夢の技術でも、神の使いでもない


ここ数週間で、我が国でも新型コロナウィルスのワクチン接種がかなり進んできました。1年以上続いてきた私たちの「我慢」にやっと終わりが来るかもしれない、という希望の光に、多くの期待が寄せられています。同時に、特にインターネット上で目にするのが、ワクチンの危険性をめぐる議論です。今回はこのワクチンをめぐる安全性の議論を見ていて思ったことを、まとまりがないながらすこし書き連ねてみようと思います。

※(最後まで読んでくださる方には不要な注意書きですが)一応ここで表明しておきますと、この文の中でワクチン接種が善なのか悪なのかという「私の」立場を表明することはありませんので、その論点に関する批判や罵倒はやめていただきたいと思っております。

twitterを眺めていたら、以下のような内容の投稿が反響を呼んでいました。


(あるテレビ局が「ワクチン接種●時間後に急死」のような見出しでニュース放送を行っていたことに対して)「(そのテレビ局の局名)を見てから●時間後に死んだ人の方が多いと思う」


これはある種の皮肉で、テレビ局をはじめとする一部のメディアはワクチンの危険性を過剰に報道し人々の不安を煽っている、という点を非難しているのでしょう。こういった批判は他にも多く見られ、「ワクチン接種後に亡くなった方がいる、という話はワクチン接種の危険性を科学的に証明しない!」という意見は「反・反ワクチン」言説の紋切り型のように見えます。


※一つ細かい指摘をすれば、「死んだ人の多さ」つまり「数」はここでは問題にならず、(ワクチン接種●時間後に急死した人数)/(死亡者数を観測した時点の●時間前にワクチンを打った人の数)が(テレビを見てから●時間後に急死した人数)/(死亡者数を観測した時点の●時間前にテレビを見ていた人の数)に対して有意に高いのか、つまり「率」が、ワクチン接種と死亡との相関関係を理解する上での統計的な問題になるのではないか、と私は思います。今回はこのような細かな「主張の正確性」の揚げ足を取ることが主題ではないですが…


まず一つ断言できることは、ワクチンは「絶対に安全」ではない、ということです。本来、新薬や新たなワクチンが実際に一般人に投与・接種されるまでには、極めて丁寧な「治験」の手続きが踏まれます。種類にもよりますが、薬品に限って言えば9年から17年。その医療技術が(完全にではないにしても、ある一定のラインを満たす程度には)安全である、という「科学的な」太鼓判が押されるには本来これだけの時間がかかるのです。新型コロナウィルスの克服は、地球を挙げた一大プロジェクトでしたので、ポジティブにいえば人類の叡智が結集したことで本来はこれだけ時間のかかる新医療技術の開発が1年ちょっとで完了したということです(ただし、「どの国がより早くワクチン開発を成功させるか」のような国際競争の側面もありましたので、「結集」という言葉にはやや語弊がありそうですが…)。


しかし、このことはこのような見方もできます。「新型コロナワクチンは、科学的には本来数年の時間が要する安全性の確認をわずか1年で済ませた技術である」。この文章を読んで、不快感を感じる方は多いかもしれません。いやいや、実際ワクチンを打っても何も起こらない人の方が多いよ。「科学的」に安全性が示されているんだから、そんなのは非科学的な陰謀論だよ、と。これは、かなり危険な思考法なのではないか、と私は思います。


なぜなら、あえて挑戦的な言い方をすれば、「新型コロナワクチンは安全である」という主張は科学的にはおそらく大間違いだからです。体に針を刺されれば誰だって痛いです。どんなワクチンにも、アナフィラキシーショックのリスクはあります。接種会場に行く途中に交通事故に遭うかもしれません(これはワクチン自体のもつリスクではないけど…)。どんな医療技術でも、「リスクがゼロである」などというのは幻想です。まして、1年で生み出されたワクチンが持つリスクなんて、それがどんなに多くの科学者の叡智が寄せ集められたものであってもまだ一部は「未知数」です。では、なぜ社会の多くの文脈ではコロナワクチンの接種が良いこととして選択されているのかといえば、自粛やマスクなど今と同じ方法でコロナウィルスと戦ってゆくことのリスクと、急ぎ足で開発したワクチンを多くの人が接種することのリスクを天秤にかけたときに、前者のリスクの方が高いだろうと推測されている、というだけの話です。重要なのは、この天秤の結果(リスク比較)は、「後者のリスクは目を向けなくて良い」とか「後者のリスクはないと思って良い」とか「後者のリスクを議論することは非科学的だ」ということを意味する、などということはないということです。


先程のテレビニュースの見出しに関しても、私にはそれが皮肉を言われ「非科学的」と批判される理由があまり分かりませんでした。ワクチン接種と接種後の死亡との間に因果関係があるのかは、わかりません。わからないということは、「関係がある」と決めつけることと同じぐらい、「関係がない」と決めつけることもまた「非科学的」だということです。「ワクチンのせいだ」と決めつけて過剰に不安を煽るような報道をすることは問題かもしれませんが、ワクチン接種後の死亡それ自体を報道することに悪いことがあるのでしょうか。先程の「天秤」の話をすれば、本来その天秤のどっちの錘の方が重いかを評価するのは私たち一人一人なはずなのです。どっちの錘が重いかは「科学的に」明らかなのだから、もう片方の皿に乗っている錘(リスク)は何なのかは見せるな!というのはおかしな話ではないでしょうか。


私は、このワクチンの議論はまさに「科学」と「社会」の危険な関係性をよく表していると思いました。ワクチンを打つと体が磁石になるとか、5G回線に接続されるとか、多くの人から見ると奇妙な陰謀論をからかう方々の背後には、「自分は“科学”の側に立っている」という自信が見えます。しかし、そういった方々のうちのどれほど多くが実際に自分の頭で「ワクチンの安全性」を“評価”したのでしょうか。それは安全か安全ではないかのYes/Noの問題ではなく、ワクチンを打つことのリスクの大きさと打たずに生活することのリスクの大きさという「数値」の問題なはずです。そして、これらリスクの大きさを現時点で正確に出すことは本来不可能な(少なくともとても難しい)はずなのです。自分は頭の中でちっとも科学的な思考をしていないのに、ワクチンを打った方が良い、という都合の良い「科学」を鵜呑みにして、それを背後に携えた自分があたかも科学的人間であるかのように振る舞って他人に石を投げることができるというのは、かなり能天気で羨ましいことだと思います。「ワクチンの危険性に目を向ける必要などない」というのは科学ではなく、「社会が都合よく生み出した科学」です。体の磁石化や5G回線への接続といったとんでもない“学説”は「ワクチンの危険性」を信じたい方々が自分にとって都合の良いように生み出した「科学」なわけですが、実はそれと同じように、自分にとって都合の良い「科学」を正当の科学だと思い込んでいる方々が彼らに石を投げている側にもいるように私には思われます。


コロナワクチンは何のリスクもなく一瞬で地球からウィルスを消す夢の技術でも、人類の苦難から救いに来た神の使いでもありません。打つか、打たないかは、両方の判断がもたらすリスクを一人一人が比べた上で、自分で決めることです。「科学が出した答えは『打つべき』なのだから、打たない奴はバカ」などという空気が生じるのであれば、その瞬間に、ワクチンは「同調圧力」という政治的なパワーをもった“モーゼスの橋”へと成り下がるでしょう。


「天秤」が覆い隠すこと


「ワクチンにリスクがあるとしても、ワクチンの副作用によって亡くなる人の数が、誰もワクチンを打たないとしたときに新型コロナウィルスが原因で亡くなる人の数より少ないのならば、ワクチンは全員が打った方がいいではないか」


おそらく、このような反論があると思います。先程私が使った「天秤」の理論の「リスク」を、「人数」に置き換えた主張です。私はこれはそれなりに正しいことだと思いはしますが、同時に、少し気味の悪い議論だとも思います。この主張をするとき、人は「ワクチンが守る命」と「ワクチンが奪う命」という「数字」の比較をします。この瞬間に、命は「数字」に変わるのです。


しかし、ワクチンを打たずに生活し、コロナウィルスに感染し亡くなる方と、ワクチンの副作用で亡くなる方は別人です。「できるだけ多くの人に(できれば全員に)ワクチンを打ってもらう」という決断は、(ワクチンに死亡リスクがあることを認めるのならば、)背後に誰かの命を救い、誰かの命を奪うというある種の「トロッコ問題」を隠しているのです。ただの思考実験としての「トロッコ問題」との違いは、どちらかの道にトロッコが進むことで死ぬのは自分かもしれないし、自分の家族かもしれないし、twitterで「ワクチンは安全だから打ったほうがよい」という情報を見て打つことを決めた誰かかもしれない、ということです。「命」を「数」に変え、簡単な不等式の問題として提示する議論には、この「トロッコ問題」を隠蔽してしまうだけの力があります。「Aで死ぬ人より、Bで死ぬ人の方が少ないよ。だからBは良い判断だね」と言われて納得してしまうとき、その人は「Bで死ぬ人」の友人や家族の悲しみを想像する優しさも、「Bで死ぬ人」が自分かもしれないという当事者感覚も骨抜きにされているのです。


「国家」は、この「トロッコ問題」を悩む必要がありません。亡くなる「国民」を少なくし、「人口」を守り、「経済活動」を正常に戻すという国家の目標に適しているのがどちらなのかは、簡単な不等式で済んでしまうからです(余談ですが、「人口」「出生率」「死亡率」などの“数値”として人々を管理する、という近代以降の権力のあり方は、哲学の歴史としてはフーコーの「生政治」という概念に代表されます)。国家にだって、自分にとって嬉しいシナリオとそうでないシナリオはあります。コロナウィルスの対応で大量の予算を消費し、自国の力を国際社会にアピールするためには是非とも実現させたいオリンピックの開催も危ぶまれ(やりそうですが)、経済が停滞して税収も減っている。国家としては1人でも多くの方にワクチンを打ってもらいたいのです。国家の正解は国民の正解なのだから、ワクチンは全員打つべきである、と思った時点で、国家がワクチンという「科学」を、自分の嬉しいシナリオを実現させるための“モーゼスの橋”として利用すること許すということです。それがダメなことだとは言いませんが、私個人の意見としては、国家の利害とは別に、一人一人が自分でリスクの判断をして決めるべき、少なくとも自分で判断することが許される空気感があるべきだと思います。


「打つよりも打たない方が危険だから、打とう」という自分の決断を下すのは素晴らしいことですが、「打つよりも打たない方が危険だから、あなたも打つべきだ」という勝手なリスク認知の押し付けは(たとえ相手の健康を心配した優しさゆえの発言でも)、本人が打つのは怖いと思っているのならばお節介で無責任(その人にもしも副作用が出たとき責任を取れるのならば無責任ではないかもしれませんが)だと思いますし、まして「国のために打て」などという全体圧力は、ひとつの都合の良い「科学」を政治的に利用しているだけです。「反ワクチン」に石を投げる前に、自分は身勝手な「科学」を道具として利用して、自らの主張を押し付けたいだけなのではないか、と一度考えるべきだと、私は思います。

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