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ロックとソウルの歴史㉔「ウィー・アー・ザ・ワールド」

 アメリカのパンクでチャート的に成功したのはブロンディでしたが、イギリスのパンクではどうでしょうか。セックス・ピストルズはアメリカではまったくヒットしませんでした。クラッシュは1983年に「ロック・ザ・カスバ」が全米8位になり、アメリカでの成功を目前にしていましたが解散してしまいます。

 実はアメリカで一番成功したのはポリスです。1983年に「見つめていたい」が全米1位になり年間でも1位になっています。ブロンディもポリスもパンクというよりかはニュー・ウェイヴになるのでしょうが。


 1984年は第2次ブリティッシュ・インヴェイジョンと呼ばれ、60年代半ばに続きイギリスのバンドがヒット・チャートを賑やかしました。カルチャー・クラブ「カーマは気まぐれ」が全米1位になり年間でも10位です。デュラン・デュランは「リフレックス」で全米1位、ワムの「ウェイク・ミー・アップ」は全米1位と続々ヒットしていました。

 ブームタウン・ラッツのボブ・ゲルドフの呼びかけで、エチオピア飢饉を救済するためにバンド・エイドというプロジェクトが動き出します。デュラン・デュランやワムのジョージ・マイケル、カルチャー・クラブのボーイ・ジョージ、ポリスのスティング、デヴィッド・ボウイ、ポール・マッカートニーなどが参加します。1984年12月3日、エチオピアへのチャリティシングル「ドゥ・ゼイ・ノウ・イッツ・クリスマス・タイム」は発売され全英1位のヒット、アメリカでも全米13位になります。

 1985年にはアメリカでもハリー・ベラフォンテの呼びかけにより、バンド・エイドに触発されたUSA・フォー・アフリカが結成されます。マイケル・ジャクソンとライオネル・リッチーが曲を書いて、クインシー・ジョーンズがプロデュースした「ウィー・アー・ザ・ワールド」を出します。世界的な話題を呼び各国でチャート1位を記録しました。スティーヴィー・ワンダー、スモーキー・ロビンソン、ダイアナ・ロス、ブルース・スプリングスティーン、ボブ・ディラン、レイ・チャールズなどそうそうたるメンツが参加します。まるでロックとソウルの時代の幕引きのような曲です。今までの主役がカーテン・コールに現れたようです。

 1985年7月にはライブエイドとしてアフリカ難民救済のライブイベントが世界的に開催されます。イギリスとアメリカを中心に各国のミュージシャンが連携して、その模様は世界84ヵ国に衛星中継されました。

 1965年にリズム&ブルースで白人と黒人がひとつになったように、1975年にファンクで白人と黒人がひとつになったように、1985年にはウィー・アー・ザ・ワールドで白人と黒人はひとつになりました。

 ウィー・アー・ザ・ワールドが葬式ならロックンロール・ホール・オブ・フェイムは墓場でしょうか。アトランティック・レコードのアーメット・アーティガンの呼びかけにより、ロックの発展に貢献した人物を選出し栄誉を讃えることを目的として、1983年にロックンロール・ホール・オブ・フェイム財団が創設されます。1986年1月には第1回の授賞式が行われました。1回目の受賞者はチャック・ベリー、ジェームス・ブラウン、レイ・チャールズ、サム・クック、ファッツ・ドミノ、エヴァリー・ブラザーズ、バディ・ホリー、ジェリー・リー・ルイス、リトル・リチャード、エルヴィス・プレスリーといった50年代のアーティストたちです。ロックはジャズと同じように歴史になっていきます。

 1986年にランDMCの「ウォーク・ディス・ウェイ」が全米4位、1987年にビースティー・ボーイズの「ファイト・ユア・ライト」が全米7位になります。いよいよヒップホップの時代になっていきます。もちろんこの後もロックがヒットすることもたまにあります。しかしエルビスやビートルズのように社会現象になることは二度とありません。ジャズと同じようにロックやソウルの時代は終わったのです。

 1986年にカセット・シングルが初めて同じ曲のシングル・レコードの売り上げを抜きました。1987年にはCDの生産量がLPを上回ります。レコードの時代は終わりCDの時代へと移り変わっていきます。欧米ではこの時期にシングル文化が衰退していきます。残念ながらもう全米1位のレコードで音楽の歴史を語ることはできません。

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