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ロックとソウルの歴史⑯「エブリデイ・ピープル」

  1966年にスティービー・ワンダーはボブ・ディランの「風に吹かれて」をカバーして全米9位にしていました。続いてサム・クックの「ア・チェンジ・イズ・ゴナ・カム」に影響を受けた「ア・プレイス・イン・ザ・サン」も全米9位にします。

 1967年にシュープリームスはダイアナ・ロス&シュープリームスと名前を変えて、ダイアナ・ロスは着実にソロの準備をしていました。

 最もヒット曲を作っていたホーランド=ドジャー=ホーランドは、自分たちがそれに見合う正当なお金をもらっていないと1968年にモータウンを離れていきました。

 1969年にダイアナ・ロスはシュープリームス在籍時最後のシングル「サムデイ・ウィル・ビー・トゥギャザー」を全米1位にしてソロになります。

 テンプテーションズはノーマン・ホイットフィールドがプロデューサーになりファンク化していきます。1968年に「クラウド・ナイン」が全米6位、1969年には「キャント・ゲット・ネクスト・トゥ・ユー」は全米1位になり年間でも3位になりました。

 1969年にモータウンはデトロイトを離れると公式発表します。強い地元の黒人コミュニティに支えられ成功したモータウンにとって、ロサンゼルスへの移転は明らかに裏切り行為でした。

 1969年にベリー・ゴーディー自ら作曲チームに参加しプロデュースしたジャクソン5がモータウンらしさの最後でしょう。1970年に全米1位になったデビューシングルのタイトルは皮肉にも「帰ってほしいの」でした。しかしモータウンはデトロイトに帰ることはありませんでした。

 ジェームス・ブラウンはキング牧師が暗殺された直後、暴動が起こることを予測して自分が持っているラジオ局の生放送で冷静になるように呼びかけました。その翌日のマサチューセッツ州ボストンでは騒ぐ黒人を町から引き上げさせるためにコンサートをテレビ中継して、暴動でキング牧師に報いるのはやめようと訴えかけます。番組は深夜0時まで再放送されて、その夜のボストンは平静に保たれました。その次の日にはワシントン市長から要請があり、暴動荒れ狂うワシントンに行きテレビやラジオで緊張状態を静めようとしました。

 そんな1968年の9月に、ジェームス・ブラウンは「セイ・イット・ラウド・アイム・ブラック・アンド・アイム・プラウド」を発表します。ジェームス・ブラウンが大声で言おうと呼びかけ、子供たちがそれに応えて僕は黒人だ、それを誇りに思うと歌い上げています。実はここで歌っている子供はほとんどが白人か黄色人種だったそうです。この曲はブラックパンサーにもっと黒人について歌えと脅されて書いたという話もあります。

 ポップ・チャートでもヒットしていたジェームス・ブラウンのライブはこのレコード以後、客がほとんど黒人になったそうです。確かにここまではっきりと歌われると白人もひいてしまったのでしょう。それがキング牧師の殺された後というのが時代の必然だったのでしょう。時代は白人と同じ権利を望む非暴力から、黒人の尊厳を誇るブラックパワーへと変わっていきます。

 1969年8月15日から17日にはウッドストック・フェスティバルが開催され、ジミ・ヘンドリックス、ザ・フー、ジャニス・ジョプリンらが出演して50万人もの観衆が集まりました。ウッドストックに出演したスライ&ファミリーストーンは「エブリデイ・ピープル」が4週連続全米1位、「ホット・ファン・イン・ザ・・サマータイム」は全米2位になっています。この2曲は1969年の年間5位と7位になるほどに黒人白人のどちらからも人気でした。

 ファンクは黒人の音楽と思われがちですがスライ&ザ・ファミリーストーンのドラム、サックスは白人です。ファミリーの名の通り、兄弟やいとこを含む男女入り混じった7人のグループで黒人がヒッピーで白人がファンキーでした。黒人のソウルと白人のロックを結びつけたスライは、音楽的にも社会的にも黒人と白人の融合は可能だと信じていたのでしょう。

 1969年12月に「サンキュー」を発表、翌年に全米1位になります。この頃からスライはコンサートに遅れてきたり、キャンセルしたりと奇行が目立ちドラッグにおぼれていきます。オリジナル・メンバーのチョッパー創始者ラリー・グラハムや白人ドラマー、グレッグ・エリコは脱退していきました。

 1969年8月にはリズム&ブルース・チャートはソウル・チャートに名称を変えています。正式にリズム&ブルースが終わりソウルになりました。

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