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信仰の瞬間/C.Gユング的に

なにを信じているのか

オウムの信者はなにを信じて信仰しているのでしょうか。
もちろん麻原教祖を信じている、また、教祖の説いた教義を信じているということになると思います。確かにそれはそうなのですが、信仰の核心部分というのは、実はそういう具体的ななにかを信じることではないのではないかと私は思うようになりました。

信仰ということについて、私があらためて考えるようになったのは、オウム事件後に入信した「事件後入信」と呼ばれる出家者たちの存在でした。麻原教祖に会ったこともなく、教祖のイニシエーションを直接受けたことがないにもかかわらず、事件後のオウムに出家する人たちがいたのです。

現在のキリスト教だって、イエス・キリストに会ったことも直接教えを受けたこともない大勢の人たちで成り立っているわけですから、それほど驚くようなことではないのかもしれません。でも、オウム事件が明るみになっていた大混乱のさなかに信仰心が芽生えるのは、私にはちょっとびっくりだったのです。

そんな人を見ていると「いったい私はオウムのなにを信じていたのだろうか?」と、考えさせられました。「教祖を信じているのか」と言われると、私は「うーん」と考え込みます。私のなかでは「麻原教祖を信じている」という感覚はそれほど強烈ではありません。では、「教義を信じているのか」と言われると、再び考えてしまいます。教義を学んで理解しましたが、それは信じることとは少し違うような気がします。

神話学者ジョセフ・キャンベルの著書に、こんなことが書かれていました。
「あなたは神を信じていますか?」
という質問にキャンベルはこう答えました。
「私は体験があるので、信じる必要はありません」
「あ、なるほど、こういう感覚が一番近いな」と思いました。

そうすると、麻原教祖と会ったことがなく、教義を理解していなくても、「体験」があると信仰がはじまるということになります。私がそうだったように、ヴィジョンを見るとか、どこからともない声を聞く、光を見るという神秘体験をしたり、尾てい骨に異常な熱を感じたり、病が治るなどの肉体に変化が起きるという体験は、とてもインパクトがありますから信仰のきっかけになるはずです。

しかし、私はそのような「体験」も、実は信仰の本質ではないのではないかと思いました。なぜなら、事件後入信した人のなかには、そのような体験がまったくなく信が芽生える人がいたからです。

事件直後の出家

興味深い例として、Мさんの出家までのいきさつを紹介します。
Мさんは、彼女の兄が勝手に入会費を払った名前だけの会員でした。地下鉄サリン事件が起こった直後、たまたま会社を辞めて時間があったМさんは、兄から「人手がたりないから応援に来て」と頼まれてオウムの道場に手伝いに行きました。道場では「オウム事件はデッチ上げだ」「宗教弾圧だ!」と訴える新聞やビラを折る作業(バクティ)がおこなわれていて、Мさんは、信徒さんたちと一緒に黙々とビラ折りをすることになりました。

道場で仮眠をとりながら三日ほど過ぎると、Мさんは杉並区にあるマンションの一室へ案内されました。兄から「しばらくここにいて食事を作ったりしてほしい」と言われ、訪れる人に食事やお茶を出すことになりました。そして数日後、そこに強制捜査が入ったのですが、なんと被疑者はМさんで、容疑は「電磁的公正証書原本不実記載」(住民票のある場所に住んでいない)でした。

杉並警察署に連行されたМさんは、すぐに霞が関の本庁に移送されました。当時は、オウムの幹部たちが次々と逮捕されていたので、建物の前には山のような報道陣がいました。ビラを折って食事を作っていただけなのに、Мさんは激しいカメラのフラッシュを浴びることになったのです。

Мさんは、兄の依頼で住民票を杉並区の親戚の家に入れたことで逮捕されたのですが、 オウムのことはほとんど何も知らないのですから二週間もすると釈放さました(それだけでも十分にひどい話ですが)。

そして、このときМさんに「信仰」が生まれたのです。

確信が生まれるとき

取り調べがはじまって、「オウムは邪教だ」「麻原はインチキだ」「ペテン師だ」「オウムは犯罪組織だ」等々、取調官がオウムと麻原教祖を罵倒する言葉を浴びせかけているとき、Мさんのなかに、一つの、強い確信が湧いてきたのだそうです。

(尊師は、本物だ…)

Мさんを罵倒し「なんであんなところにいるんだ!」と問いただす取調官に、Мさんは心に湧いてきた同じ言葉を口に出しました。

「尊師は、本物だと思うんです…」

そのときからМさんの信仰はまったく揺らぐことがないというのです。Мさんは口数の少ない人で、私はこの話を聞きながら「そのとき、あなたのなかでなにが起こったの?」「もっと詳しく説明して」と何度も聞きましたが、Мさんは「尊師は本物だと、そのとき思ったんです」としか説明してくれません。

「でも、内側でなにかが起きていないと確信は生まれないと思うんだけど…」

私が重ねて聞いても、答えは同じ「尊師は本物だ、と思ったんです」それだけでした。

釈放されたМさんはオウムに出家しました。麻原教祖に一度も会ったこともなく、オウムの教義も学んでいない、まともに修行をしたことがなかったにもかかわらず。

突然やって来るもの

信仰は、現実の教祖や教義という具体的なものを信じているように見えても、それらを信じる以前に、突然やって来る内側の「なにか」によって生じるのではないでしょうか。そういう意味で、次にあげるC.G.ユングのエピソードは、人間と信仰について考えるうえでたいへん参考になったものです。

――ユングがアフリカのエルゴン山に住む原住民と過ごしたときのことです。彼らはいつも明け方には小屋を出て、自分の手のひらに息や唾をはきかけて、それを昇ってくる太陽の最初の光に向けてひろげて見せるのです。それはまるで彼らの息や唾を、昇って来る神(彼らの言葉ではムング、ポリネシア語の“マナ”に近い言葉)に捧げるかのようでした。このことから彼らにとって太陽が神であるように思われるのですが、昇った太陽を指さして「あれはムングか?」とユングが尋ねると、彼らは「なんと愚かなことを聞くのか」とでも言うように嘲笑して否定しました。つまり、水平線の上に昇ってしまった太陽はもはやムングではない。ムングは太陽が昇るまさにその瞬間なのです。――

このエピソードから、アフリカの原住民が「太陽信仰」をしていると考えてしまう人もいるでしょう。しかし、昇った太陽はムング(神)ではないと彼らは言うのです。太陽が昇る瞬間がムングであるということは、太陽が神であるのではなく、日中の太陽光が神であるのでもなく、彼らは「光がくる瞬間」に神を感じているということです。

それは光が来る瞬間に内側に起きているなにかのことではないでしょうか。私のオウムでの信仰を「教祖を信じている」「教義を信じている」と言ってしまうとなにか違うと感じるのは、アフリカの原住民が「太陽が神なのではない」ということと同じではないのかと思うのです。

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