功利主義の逆襲ーミルにおける自由と効用

「最善の判断者」とは何か。定義としては、「自己利益を最大限に実現する選択肢を最も効率的に選択する能力を持った存在」としている。
これを支える理論は三つある。それは、「合理性が個人に欲求することは自己利益の最大化である。」、「個人は通常、自分の自己利益を最大化するような選択を行う。」、「個人の自己利益を最大化するための最も効率的な手段は個人に選択を委ねることである。」というようなものである。

このような構造を有する最善の判断者論は、パターナリズムに対する批判の一つになる。また、パターナリズムの定義としては、「(社会や政府といった)他人が行為者の利益を確保するために行為者の選択に介入することを正当であると認める立場」と一時理解しておこう。

パターナリズム批判において脆弱である部分として、先ほど提示した二つ目の理論、これをホモエコノミクス仮説と呼ぶのだが、これが最善の判断者論に対する批判の対象となった。法哲学者のハートによると、ミルは自分の利益が何であるかを最もよく判断できるのは本人であるとするが、これは「中年男性の心理」で、実際の人間とかけ離れている、と切り捨てる。その後、行動経済学の知見などにより、形態のパターナリズムの擁護へと繋がった。

つまるところ、どちらが効率的なのか、これに依存する。ここでミルの、「個人は自己利益に関する最善の判断者である」という妄想に近い根拠に基づき個人の自由を擁護していたのか、ここを検討するべきである。
第一に『自由論』のテキストに最善の判断者論の根拠を見出すことができるのかという文献に基づく検討で、第二に最善の判断者論と選択の自由との関係という概念に基づく検討をする。

文献においては、一度も最善の判断者という言葉を用いてない位に根拠として弱い。その代わりに最終の判断者という言葉を用いている。

他人が本人の判断を助けるために配慮し、本人の意思を強めるために励ますことはあるだろうし、配慮や励ましが押し付けがましくなることもあるだろう。だが、本人自身が最終の判断者なのである。他人の助言や警告を無視して本人が間違いを犯すことがあっても、他人が本人のためだと考えることを強制するのを許容した場合の方が、はるかに大きな害悪をもたらす。

ここでいう最終の判断者と最善の判断者は同一ではない。本人が間違いを犯すことを十分に考慮している。また別の所で、ほとんどの人間が判断能力を持たないと強調している。しかし、これはパターナリズムの方が効率的という根拠にはなり得ない。

最善の判断者論は、ミルが擁護しようとしていた選択の自由の重要性を、効用の原理と調和させることに成功するのだろうか。最善の選択者論の特徴は、個人が選択する選択肢の質に関心を集中している点にある。最善の判断者論は、個人の選択した選択肢が最善のものとするため、他者や社会が選択者の自己利益の確保を名目とし、選択者の選択に介入することの正当性を訴えるパターナリズムを批判する。
また、個人が選択した選択肢が最善ならば、個人に選択を委ねることにより、自己利益の最大化が実現されることになるため、選択の自由が「効用の原理」と合致するのも説明できるだろう。

最善の判断者論にミルが擁護しようとしている選択の自由に反するimplicitがあることに注意せねばならない。これを明確にするため、最善ではないことがわかっている選択肢を他者や社会が排除することは許されるのか、という問題を扱う。
結論を言うと、ミルは禁酒法に対する反対から見て取れるように、邪悪の可能性がある選択肢の排除に対してさえも反対する。つまり、個人が選択するだろう選択肢の質に依存した議論では無い。



最善の判断者論が一区切り終えた所で、次に最終の判断者とはどのような存在か、と問う必要が出てくる。最終の判断者が最善の判断者には還元されない独自性を有することを示すために、三つの問題を検討する。

まず一つは権限である。自分だけに関わる問題に関しては本人が主権者と主張している。ここにおける主権とは決定の権限に関わる概念である。行為者が常に最善の判断者であるならば、最善の判断者ではない他者の助言が必要であるとは考えられないが、最終の判断者による判断の内容が必ずしも正当であるとは限らないならば、他者による助言は重要であると言えよう。しかしミルが批判しているのは、行為者の決定権限を蹂躙する行為である。行為者の判断が間違っているかもしれない、と言うことは鞭を利用する根拠にはなり得ないのである。

パターナリズムが他の行為者の決定権限を蹂躙する行為の形態と異なるのは、介入される行為者の利益に言及している点である。しかしミルの議論は決定権限の在りどころを根拠としている所に注意せねばならない。

そこそこの常識をもち、経験を積んだ人であれば、自分のやり方で生活を組み立てていくのが最善である。それが最善であるのは、それ自体において最善であるという意味ではなく、それがその人自身のやり方であると言う意味においてである。

ミルが最終の判断者であるために必要な能力として、最善の選択肢を見分け、それを選択する能力に求めているわけでではないと言うことが明確に示されている。ここで求められるのは、そこそこの常識と経験であり、最善の判断者に必要な能力と比べて控えめである。

最善の選択者は、最善の選択以外を除去されても問題はないが、最終の判断者は、それ以外も必要とする。それはなぜか。それはどの選択肢を選び、どの選択肢を除去するかは、最終の判断者に属する事柄であるからである。



ミルの自由と効用の関係という問題を解決するのに、選択肢に対する評価、または選択肢の効用から選択肢の集合に対する評価、または選択肢の集合の効用へと焦点を移動するべきである。この際手がかりになるのは、邪悪な選択肢を除去することが自由の侵害に当たるかという問題である。これにおいてミルとラズの見解を見ていこう。

ミルは自由の原理を効用の原理の上に建てようとしたのと同様にラズも自らのリベラリズムを福利の理論の上に基礎付け自立性を主張しようとした。反対に相違の点は、邪悪な選択肢を残すべきか、ということである。前述から分かるように、ミルが肯定派で、ラズが反対派である。自律性に必要なのは、十分な範囲の選択肢が存在することであり、特定の選択肢には依存していない、とラズは主張する。

ミルが邪悪な選択肢に対してどのような態度だったかを確認するため、「危険な橋」の例を提示する。
危険な状態になっていることが確認されている橋を渡ろうとしている人を見かけた時、警告する余裕がない場合には、その人を捕まえて引き戻した場合に、自由の侵害になるか、という問題である。ミルは、侵害にならないと主張する。自由とは自分の望むことを行う自由であるからである。悪い選択肢や無価値な選択を機会集合から除くことは、選択される選択肢に情報を限定するなら、最終的には選択順序の最上位の選択肢以外のものを除去しても自由であるということになるではなかろうか。

ミルの自由論において不確実性が橋の例等の不確実性を重要とするなら、効用と自由の関係はどう理解できるだろうか。ミルは自由の価値を「効用とは無関係なものとしての抽象的な正義」という観念に依拠するのではなく、効用の観点から思考する。これは内在的ではなく手段的な価値だ。

それでは手段的価値とは何か。それは、「ある現象xが手段的価値を有するのは、xが別の何かの価値がある現象yの手段である場合、かつその場合に限る」。
さらに非特定的か特定的に分けられる。
非特定的は、「ある現象xが非特定的価値を有するのは、xがその特定のインスタンスの性質のいかんにかかわらず、別の何かの価値ある現象yの手段である場合、かつその場合に限る」。
特定的は、「ある現象xが特定的価値を有するのは、xの特定のインスタンス(あるいはその集合)が別の何かのある価値ある現象の手段である場合、かつその場合に限る」。端的にいうと、具体的か、普遍的かである。

次は個人の利益にとっての自由の必要性ではなく、社会の利益について考えるが、これも個人と同様である。ミルは各々が自分の生き方を自分で組み立てるのが最善であると述べている。これは最善の判断者論に接近しているのだろうか。ミルが言及している最善性は、最善の判断者論の前提としている最善性とは異なっている。
なぜならそこに「唯一の正しい答え」を想定していないからである。

また、明確ではないが、複数の正しい答えの存在を想定していないように思える。各々が行うやり方が「それ自体において最善」であるとは述べていない。つまり、各々が自分のやり方で行なっていることが、何人かの人にとっては最善ではなかったにしても、全体として最善の状態であるとミルは考えている。

ミルが自由の根拠としている「効用」は最広義における効用で、「進歩する存在としての人間の恒久的な利益」である。
しかし私たちは進歩の最中にいるわけであって、進歩した存在である人間の利益を知り得ない。そのため、何が正しくて、間違っているのか明確な見解を判定しにくいのである。
このような状態で、意見の多様性が社会において存在することは、「人類の知識が現在から見ると果てしないほどの高みにたどり着くまで有益であり続ける」とミルは主張する。

つまり、我々は特定の選択肢について確信が持てないが故に、社会にとって、多様性が非特定的な価値を有するのである。



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