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エルネコさんとその中の人の自己紹介note

このnoteを手に取って頂き、ありがとうございます!

このnoteはどんなネコと人が書いているのか気になる方も稀にいらっしゃるかと思いますので、簡単ではありますが自己紹介をしたいと思います。

エルネコさんは2010年5月に東京の大塚というところにある猫シェルターから譲り受けました。なので今は2024年なので14歳になります。キジトラの♂で性格はビビりでもってちょっとドジです。マタタビを与えると目はとろ~んとするものの、かなりの確率で興奮状態になり狂暴化します。

1歳のときキッチンで料理後で熱い状態のIHクッキングヒーターの上に乗り左手の肉球が剥がれました。(うんちんぐhigh)その1か月後、電気ケトルの沸き上がりの湯気が気になり自らにおいを嗅ぎに行き悲鳴をあげ(結果ケガ等はなかった)。そしてコンセントの差込口に爪とぎをして感電(結果ケガ等はなかった)と、若さゆえの過ちがたくさんありました。

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今思えば、殺処分寸前でシェルターに行けた事も怪我が笑い話で済んだのも『幸運のカギしっぽ』と呼ばれる尻尾があるご利益なのかもしれません。肉球を火傷してから古傷を触られるのは今も嫌みたいですがそれから二度と料理中はキッチンに近づかなくなりました笑

2014年6月、仕事帰りに高架下でルナを保護し我が家に迎え入れる事に。ルナはまだ子ネコだしエルネコさんと同じキジトラ柄だからきっと大丈夫だろうと最初はルナをケージに入れて慎重に対面させたのですがダメでしたね。

動物病院での検査では猫エイズ等の病気は陰性でしたがルナは野良生活が長くやせ細っていただけで歯形から推定しても1歳以上だろうとの事でした。先住猫であるエルネコさんはだいぶ、怒りました。

それまでシャーシャー言ったことなかったのですが。。。下の写真でもお判りいただけるようにエルネコさんはかなり不服そうな表情をしています。(写真上が暖かいラグに座りたいのに近づけない先住エルネコさん)

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とは言えエルネコさんはルナと仲良くなろうとはしてくれていました。でもどうしたら仲良くなれるのかが分からず空回りしてしまい、結局はルナに嫌われてしまったようです。(写真手前がルナ)

2016年4月にルナが真っ直ぐ歩けなくなり検査の結果「扁平上皮がん」である事が分かり1か月の余命宣告を受けます。そして2016年5月に虹の橋を渡りました。

結局エルネコさんはルナとは最期まで仲良くなれませんでしたが、怒りながらも自分のテリトリーをルナに分け与える事を許してくれたエルネコさんには本当に感謝しています。

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一方でエルネコさんの中の人はというと、中程度の猫アレルギーです(笑)。鼻先でスリスリされるとボツボツができて痒くなったり、鼻がムズムズしたりしたのでアレルギー検査をしたら判明しました。最近分かったのですが子供もレベルMaxの猫アレルギーです。

幼少期に家庭が複雑だったせいか周りからは少し変わった人と思われる事が多いです。人間としては欠陥商品だと思うのですが、結婚して子供がいても未だに「好き」とか「愛」がなんだか分からないでいます。

酒浸りの父親からの暴力、育児放棄、離婚、いじめ・・・幼少期は生きた心地がしませんでした。僕が小学1年生の頃、両親が離婚する事になり、母親の実家で親権をめぐって意見交換をしたものの平行線をたどりました。

結局じいちゃんから「お前が一緒に暮らしたいほうを自分で選べ」と1週間考える時間を与えてくれたのですが僕は考えるまでもなく「母親」を選ぶと心に決めていました。

だけど僕が回答を告げる当日、じいちゃん家へ向かう車中で父親から「お前が母親を選んだら親族もろとも殺して火をつける」と脅してきました。車の後部座席には包丁が数本、その後ろに赤い灯油の入れ物が4~5体積んであるのが分かりました。

屈辱でした。そんな汚い手を使われて「父親と暮らす」と自分の口から言わなければいけなかったんですから。何度か父親の暴力から逃れるために家出をしたことがあります。匿ってもらおうと数十キロ離れたじいちゃん家にやっとの思いで辿り着くと、

「あの時、父親を選んだお前が悪いんだから、帰りなさい」 

このじいちゃんの言葉は当時6歳の僕にはつらい一言でした。 今、お前が生きていられんのは誰のおかげなんだよ!って心の中で叫んでましたし、このときの出来事で僕の中にあった何かが失われたのだと思います。

家に帰って父親にボコボコにされてももはや痛みは感じなくなり、殴られたあとの血の味しかしなかったおにぎりを食べていました。料金未納で水道・ガス・電気は止められ、家は競売に掛けられ住む場所が無くなっても「酒・女・たばこ」をやめない父親を心の底から軽蔑しました。

不衛生な環境が祟ったのか小学校4年生のときに「マイコプラズマ肺炎」という病気にかかり、熱は40度を超え意識を失うほどの息苦しさに、『あー、僕はまだ10歳なのにもう死ぬんだな』と思いました。

目が覚めると僕のベッドの傍らで泣いている母親の姿がありました。夢なのか現実なのか定かではない状況のなか、『うわー!僕は死んじゃったのかな』そう口にしようとしてもしゃべれず、手足も動かず、そしてまた眠くなりました。

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その次に目が覚めると僕しかいない病室に陽光が差し込む夕方でした。

看護婦さんが飛んできてしばらく眠ったままであった事を告げられ漸く自分が生きている事を実感しました。体重も20㌔近く痩せて歩くこともままならない状態ではありましたが、母親より先に死んではいけないと思いました。

高額な入院費は全額母親が工面してくれました。親権のある父親は一度も病院へ見舞いに来ることも無く、お金の話になると都合よく居なくなりそれを咎めると飲み歩き酒に酔っては暴力を振るう。離婚される理由が良く分かりました。

入院中は点滴だったので退院するとごはんが無性に食べたくなりました。母親からこれで何か買いなと渡されたお金で豚肉を買い、自分で焼いて醤油で味付けをして食べたご飯がとんでもなくおいしかったのを覚えています。

退院して2か月後には30㌔も太り、すこしぽっちゃり体形に・・・そして僕が小学校6年の時、母親がいとこと再婚したことで複雑さが増します。突如父親が2人になり妹ができた事にかなり戸惑いました。


中学生になってもぽっちゃり体形は変わりませんでしたが、同じクラスでよく席が隣になる女の子が気になるようになりました。肺炎の影響なのか、よく授業中にお腹の調子が悪くなりトイレに行く事が多かったのですが、

その子はイヤな顔ひとつせず戻ってきた僕を自然に受け入れてくれて、いじめにも決して加わる事のないとても活発な女の子。その子はバスケをしていました。→仲良くなりたくて僕もはじめた程です(単純)笑。

その子との会話の中で『私ね、お父さんから結婚するなら○○高を出た人にしろって言われてるの。』という情報をゲット→そこが第一希望高校になりました(超単純)

ただ、そこの高校。調べると問題が大きく2つありました。まずは偏差値、そこの高校は偏差値65以上の普通科の超進学校で自分の偏差値は50そこそこだった事、もう一つは男子校だった事。そこに行く=その子と同じ学校には通えないという厳しい現実が待っていました。

同級生だったので好きとかそーいうのではなかったかもしれないけど、高校になってもその子に会いたいな、万に一つでも可能性があるならば、その子のお父様の意向も組んでおきたいなと思っていました。

その翌日から学校から帰る17時から夜中の3時まで1日10時間、書いて書いて書きまくる生活が始まりました。右手中指の第一関節にできた「ペンだこ」は29年経った今でも勲章として残っています。

猛勉強の末、その高校に合格します。そのかわり、その子との遭遇確立が劇的に減ってしまいました。でもある日、その子と地元の駅で偶然会う事ができて久しぶりだねと会話をしているとその子に、もう少し仲良くしたいから今度遊ぼうね!と言われました。

好意を寄せていた僕からの一方通行かと思っていただけに、うれしかったけど「うん、そうだね!」と空返事をする事が精一杯で

今思えば、その子は勇気を振り絞って誘ってくれたのに対し僕はその子の連絡先を聞きませんでした。いつか誰かに初恋ってうまくいかないと言われていたのはこういうことなんだなぁとしみじみ思いました。


高2になった僕は当時流行りだったバンドを結成します。歌が得意だったのでVocalを担当、ぽっちゃりもNGなので朝昼晩3食ともカロリーメイトで体重をがっつり落としてビジュアルにも気を配るようになりました。

そしてはじめて出演した地元のライブハウスでメンバーは3人、持ち曲はたったの3曲だけで対バンに挑み、他の演者のファンや関係者で50人はいたでしょうか、拍手喝さいを浴びまさかの大成功を納めました。

噂が噂を呼び、次の日から僕は知らない人からも「あのライブは凄かった、次はいつやるの?」と声をかけられるようになり、正直恥ずかしいとも思いましたが手ごたえを感じた事で高校卒業後は東京へ行く事を決意します。

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東京都三鷹市、僕はここで新聞配達をしながら学費を面倒見てくれる制度を利用して音楽専門学校に通います。が、朝2時起きで7時まで新聞を配達した後電車で学校へ行き、終わってすぐに夕刊の配達、そのあとは集金や営業活動、寝る暇はほとんどなく次第に学校へは行かなくなりました。

何のために東京に出てきたのか、やりたい事は何なのか、何が好きで何が嫌いなのか、そして今後どうしたいのか。父親に暴力を振るわれていた事で暴力を振るわれてるのは僕ではないと自分を殺し続けたせいで僕は本当の心の声さえも届かない深い闇の中にいたようです。

専門を卒業した後は、新聞仲間(元ヤクザ)の紹介で水道屋さんに就職。水道屋といっても工事現場に行って作業する職人のほうです。5年後に会社が無くなり今まで厚生年金にも雇用保険にも加入してない事が判明。

その後メーカー企業に就職→結婚→移住→転職。で今に至ります。

移住する少し前、父親が亡くなった事を福祉施設からの手紙で知りました。法廷相続人にあたるので遺骨を受け取りにきて葬儀費用を負担し、多額の借金を返済する義務がある事も通知され、僕の中では怒りが込みあげました。

僕は弁護士に相続放棄を依頼し、遺骨の引取りも、葬儀費用の負担も、そして借金の返済も一切拒否しました。それでもあなたは人間なのかと関係者から非難を浴びせられもしました。

もちろん僕が生まれるきっかけであった事には感謝しています。父親が酒に溺れる前はよくキャッチボールをしてもらったり海釣りに連れて行ってもらった記憶があります。それでも今は前を向いた僕をそっとしておいてほしい。そういった決別の意が相続放棄には込められています。

ちょっと普通の子供が経験しないような暗めの事も書いてしまいましたが
いま思い返してみてもいろいろあったなぁと思います。
そんな経験があったからこそ、

こうするべきだったな、とかこうしてたら今違った人生が歩めたな等、僕ならではの視点でnoteを発信していけばと思います。

それでは宜しくお願い致します。

エルネコさんとその中の人より



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